ザ・ベストテン
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| ザ・ベストテン | |
|---|---|
| ジャンル | 音楽番组 |
| 放送时间 | 木曜21:00 - 21:54 |
| 放送期间 | 1978年1月19日 - 1989年9月28日(603回) |
| 放送国 | |
| 制作局 | TBS |
| 演出 | 山田修尔ほか |
| プロデューサー | 弟子丸千一郎ほか |
| 出演者 | 黒柳彻子 久米宏 小西博之 松下贤次 渡辺正行 他 |
| 音声 | ステレオ放送 |
| オープニング | 「ザ・ベストテンのテーマ」 (作曲:服部克久) |
ザ・ベストテン(The Best Ten[要出典])は、1978年1月19日から1989年9月28日までTBSで毎周木曜日の21:00 - 21:54に放送されていた音楽番组である。全603回放送。
1976年から1977年にかけて放送された『トップスターショー・歌ある限り』の后番组としてスタート。最高视聴率41.7%を记録し、TBSの看板番组の1つになった。放送期间は主にアイドル全盛の1980年代で、当时の人気アイドル歌手が多く出演した(「ザ・ベストテン登场歌手一覧」参照)。多くの歌手にとってこの番组で自分の曲を歌うことは目标の1つであった。
[编集] 概要
[编集] 内容
毎周生放送で独自の邦楽ランキング上位10曲をカウントダウン形式で発表し、ランキングされた曲を歌手が披露する歌番组である。
[编集] ランキングの决定方法
ランキングは、レコード売り上げ(オリコン、ミュージック・ラボ、ミュージック・リサーチの3社のランキングを使用)・有线放送リクエスト(全国有线音楽放送协会のデータを使用)、ラジオ放送のリクエストチャート(TBSラジオ系列)・番组に寄せられたはがきのリクエスト(番组冒头で発表)を合わせたポイント制で决定された。
番组开始时の配点比率は「レコード2:有线1:ラジオリクエスト3:はがきリクエスト4」とはがきのポイントが高く、レコードや有线で20位以内に入らない曲がベストテンに入ることもあった。だが1979年2月に配点比率を「レコード3:有线1:ラジオ3:はがき3」に改め、この时はTBSから番组の中でなく周刊志などを通じて周知された。配点比率はその后も见直され、1981年顷から「レコード45:有线10:ラジオ21.9:リクエスト23.1」になり、1986年からは「レコード60:有线10:ラジオ10:リクエスト20」となったが、配点见直しの公式通知はなかった。
[编集] ランキングの客観性
ランキングは客観的なデータに基づくものとされていたが、実际には番组制作侧の恣意的な操作があったと根强く言われている[要出典]。制作侧によるランキングの恣意的操作に确证はないが、一方でランキングが本当に客観的であるという确证もない。
本番组でのランキングは歌手の人気度のランク付けにも少なからず影响を与えたため、番组制作侧と歌手侧(レコード会社や所属事务所を含む)との対立も生まれたとされ[要出典]、郷ひろみの出演拒否(1982年)の真の原因はそこにあると推测する向きもある[要出典]。
[编集] 番组构成、ならびにセット
ランキングは、当时世界各国の国际空港で出発・到着案内として用いられていた反転フラップ式案内表示机(通称:パタパタ)をヒントに考案された「ランキングボード」を使って発表された。
歌手が登场する际は、オーケストラの演奏(10~2位と1位では登场音色が多少异なる)をバックに「ミラーゲート」を通って登场。1位の歌手がスタジオに出演した际、くす玉割りや様々なプレゼントをスタッフが用意することもあった。
スタジオでの歌の演奏は、基本的にオーケストラによる生演奏だったが、末期はカラオケになることが多かった。セットは『ザ・ベストテン』ならではの独特の演出で、まれに意図がよく分からない时があり、长渕刚など、歌手によってはセットは不要という歌手もいた。
ランクインしたが都合でスタジオに来られない歌手は、生中継で歌を披露したが、そのために歌手や関系者が番组制作侧の都合に振り回され、歌手が出演しているコンサートの进行に影响が出たり、駅などの公共交通机関に混乱が生じたりといった騒动も少なくなかった。テレビでの露出度が命である歌謡曲歌手にはそれを上回るメリットもあるが、コンサートに足を运んでくれるファンを重视するニューミュージック系歌手が出演拒否することにも理由があった。1980年代后半にはグループのメンバーの一部が别行动している际には、そのメンバーを他のメンバーがいる中継先の映像にビデオ合成するということも行われた。
ランキング外の1・2曲をピックアップして「今周のスポットライト」というコーナーで绍介した。11~20位の曲もVTRで绍介され、出演者が少ない时には30位や50位からの発表もあった。
番组の最后には、出演者全员で集合写真を撮影し、それをリクエストはがきが采用された视聴者にプレゼントするのが恒例だった。なお、番组终了时にこれらの集合写真を本にまとめ、国立国会図书馆および各都道府県立の図书馆に寄赠した。ネットした各放送局も所蔵しているが、开局记念イベント等以外は非公开となっている。
[编集] 年间ベストテン
毎年末(番组が终了した1989年を除く)に「年间ベストテン」、1981年からは6月に「上半期年间ベストテン」(「上半期ベストテン」が意味としては正しいが、番组ではこのように表现していた)を発表し、1988年には「月间ベストテン」も放送。1978年から1980年までは、年间ランキングでは得点は発表されなかった。また、年间ランキングの回が3时间の「豪华版」となって「年间ベストテン」を発表したのは1982年からである。それ以前は通常放送と同じく1时间枠内でその周のベストテンの后で放送しており、1978年は1位のみ、1979年は3位と1位、1980年は3位・2位・1位、1981年は2位と1位がスタジオで歌われた。
1986年1月には、1985年の歌手别年间ランキングが発表された。テロップと字幕での発表でランキングボードは使われなかった。なお、歌手别ランキングが発表されたのはこの年だけだった。
[编集] 歴代司会者
- 1978年1月19日~1985年4月25日(第1回~第375回)
- 1985年5月2日~1985年9月26日(第376回~第397回)
- 2代目:黒柳彻子・小西博之
- 1985年10月3日~1986年9月25日(第398回~第448回)
- 3代目:黒柳彻子・松下贤次
- 1986年10月2日~1989年1月5日(第449回~第565回)
- 1989年1月12日~1989年9月28日(第566回~第603回)
初回放送の前周に放送された『ザ・ベストテン前夜祭』(1978年1月12日)が黒柳・久米コンビの司会スタート。正式の最终回(1989年10月5日)は4代目の黒柳・渡辺・柄沢トリオが主に司会を担当した。
なお、上记の放送回数はランキング绍介を行ったレギュラー放送回についての通算回数を表记しており、この前夜祭と正规最终回の回数は含まれていない(これらを含むと通算放送回数は605回)。また、初代男性司会者の久米については前番组に当たる『トップスターショー・歌ある限り』のサブ司会を担当しており、それを含めたTBS木曜21时枠での通算司会期间は计9年7ヶ月となる。
[编集] 歴史
[编集] 前夜祭
初回放送の前周(1978年1月12日)に『ザ・ベストテン前夜祭』が放送された。 1977年の年间ランキングが、レコード売り上げと有线放送のデータのみに基づいて発表された。
- 第1位:青春时代(森田公一とトップギャラン)
- 第2位:胜手にしやがれ(沢田研二)
- 第3位:昔の名前で出ています(小林旭)
- 第4位:渚のシンドバッド(ピンクレディー)
- 第5位:ウォンテッド (指名手配)(ピンクレディー)
- 第6位:津軽海峡・冬景色(石川さゆり)
- 第7位:雨やどり(さだまさし)
- 第8位:失恋レストラン(清水健太郎)
- 第9位:星の砂(小柳ルミ子)
- 第10位:爱のメモリー(松崎しげる)
石川さゆりとさだまさしは欠席。8曲がスタジオで歌われた。
またゲストとして山口百恵・桜田淳子・殿さまキングス・八代亜纪・郷ひろみなど合计15组が出演した。「スポットライト」のコーナーもあり、日野てる子が「夏の日の思い出」を歌った。0回目ということで、番组は会场のTBS「Gスタジオ」にいくつかのテーブル席が设けられたお披露目パーティーのようなものであった。歌のセットは作られず、バンド前に全歌手が椅子に座っていた。歌手以外にも福田一郎などの音楽评论家・プロダクション関系者も出席していた。オープニングのテーマもおなじみの音楽ではなく全く违うものが使用された。视聴率は24%。
[编集] 第1回放送
1978年1月19日に放送开始。ここから周间ランキングを発表。
- 第1位:UFO(ピンク・レディー)
- 第2位:わな(キャンディーズ)
- 第3位:しあわせ芝居(桜田淳子)
- 第4位:わかれうた(中岛みゆき)欠席
- 第5位:禁猟区(郷ひろみ)
- 第6位:憎みきれないろくでなし(沢田研二)
- 第7位:ブーツをぬいで朝食を(西城秀树)欠席
- 第8位:若き旅人(狩人)欠席
- 第9位:泣き虫(清水健太郎)欠席
- 第10位:风の駅(野口五郎)
当时人気絶顶の山口百恵の「赤い绊」が第11位にランキングされ、また4位にランク入りした「わかれうた」の中岛みゆきはレコーディングを理由に生出演を拒否するなど、初回から顺风満帆とはいかなかった。それでも视聴者からは正直なランキングの発表に评価があった。これは、黒柳が司会を引き受けるに当たり「番组の演出で顺位を动かすことはしないで、正直な形で顺位を発表してほしい」という条件を付けたことを守るためだったと言われている。
初回の「今周のスポットライト」はフランク永井・松尾和子の「东京ナイトクラブ」(この回はランキングとは无関系に懐メロで登场)。 初回は1~10位は曲名と点数、11~20位は曲名のみの発表だったが、2003年12月31日放送の『ザ・ベストテン2003』でこの周の11~20位の点数、21位~30位の曲名と点数が初めて明らかにされた。
[编集] 1978年~1984年
- 1978年9月28日はドラマスペシャル『云を飞び越せ』のため休止したが、冒头でベストテンのランキングのみ発表。
- 1979年4月5日と12日の放送で、西城秀树の「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」が计算上の周间得点の最高である9999点を获得。番组史上満点を获得したのはこの曲のみである。
- 1979年12月27日の「年间ベストテン」では、通常のベストテンではベスト3に入らなかった渥美二郎(年间第3位「梦追い酒」)と小林幸子(年间第1位「おもいで酒」)が息の长いヒットにより年间ベスト3に入り、両者がスタジオで热唱。渥美は通常のベストテンではわずか3周のランクイン、それもすべて10位であったが、8ヶ月间ベスト30に入り年间の高得点につながったことを久米が解説。また直前まで顺位を知らされていなかったという小林は、あまりの感激に歌う前に纸吹雪の中で号泣、黒柳や共演者たちももらい泣きした(第2位はサザンオールスターズの「いとしのエリー」。通常のベストテンでも7周连続1位获得)。
- 1980年2月14日、「今周のスポットライト」に『3年B组金八先生』の主题歌である海援队の「赠る言叶」が登场するのに合わせて、3年B组の生徒役一同がスタジオに押し挂けた。
- 1981年3月26日放送分より、TBSと一部のネット局でステレオ放送を开始。
- 1981年6月18日放送で寺尾聪が歌った「ルビーの指环」がそれまでの番组记録だった世良公则&ツイストの铳爪が记録した10周连続1位を更新する11周连続1位を达成。记念として寺尾には1位记念番组オリジナルタバコ(ハイライト)がプレゼントされ、歌と当周出演者のお祝いメッセージを収録したゴールドディスクが作成された。记録は翌周(12周连続)まで続き、その伟业を称える形でスタジオに赤いソファーが设置された。なお、赤いソファーは2005年7月30日から8月7日まで大阪城公园で开催された『オーサカキング2005』(毎日放送主催)で特别展示された。
- 1981年9月17日の放送で、最高视聴率41.7%(ビデオリサーチ调べ・関东地区)を记録。この周の1位はイモ钦トリオの「ハイスクール・ララバイ」。
- 1981年11月19日、山本譲二の「みちのくひとり旅」が5周连続6位という珍事に、「1位记録よりも难しいでしょう」と本人も苦笑い。
- 1981年12月、200回记念をパーティー形式で行い、これまでにランク入りした歌手が集合した。
- 1983年から「ザ・ベストテンIN○○」(550回は「ザ・ベストテン大移动」)と称して、年に1回(当初は放送300回记念、350回记念とキリのいい回に行っていた)全国各地を回る公开生放送を行っていた。最初の公开生放送は放送300回を记念して长崎市で行われ (「ザ・ベストテンIN长崎」、350回は冈山、400回は静冈、450回は松本、500回は仙台、550回(正确には552回)は鹿児岛)、中継を含めると8组の歌手が出演し、そのうち4组が特设ステージで歌を披露した。この周は杏里の「CAT'S EYE」がテレビアニメの主题歌として初めての1位となった周でもある。また500回记念の时には、とんねるずがこの公开放送の回に出たさに、わざとチャート初登场がこの回になるようにシングルの発売日を合わせたというエピソードも残っている(チャートインしなければもう歌わない、と当时『オールナイトニッポン』などでリスナーに胁しを入れていたとも)。
- 1984年10月18日放送では「秋のザ・ベスト展」と题してランクインした歌手による芸术作品が披露された。
[编集] 1985年~1987年
- 1985年1月10日、オープニングでオーケストラ・コーラス・指挥者を绍介。オープニングはいつも音は事前収録だったが、この日のみ生演奏。しかし、テーマ曲のアレンジが异なるが前夜祭でのオープニングも生演奏が行われたが、1回目以降前夜祭の音楽は使用されることはなかった。
- 1985年4月18日、司会の久米宏が翌周で『ザ・ベストテン』を降板すると発表。半年后の同年10月からテレビ朝日で『ニュースステーション』を担当するための降板だったが、当时このことはトップシークレットで、黒柳や番组开始当初からのスタッフである山田修尔プロデューサーにすら知らされず、黒柳は「足腰が动かなくなるまでやろう」と久米を翻意させようとしたという。当初は3月で降板の予定だったがスタッフが4月まで延长させた。この时点で久米は他のレギュラー番组も全て降りていた。当初は黒柳も辞める気だったが、スタッフに説得され最终回まで司会を続けた。この日のゲストの中森明菜・松田圣子が涙を流していた。
- 1985年4月25日、久米宏が番组を卒业。翌周から松下贤次アナウンサー・タモリ・寺尾聪・小沢昭一・生岛ヒロシらが司会の代わりを务めた。
- 1985年10月3日、2代目男性司会者として小西博之が初登场。9月26日にスタジオに登场してエンディング时に绍介されている。
- 1985年10月17日、静冈・日本平から「400回记念 ザ・ベストテンin静冈」を放送。静冈放送はラジオでも同时放送された。
- 1986年春顷からテレビ番组出演を必要としないアーティスト系も常时ランキングされるようになり、出演拒否する歌手が毎回半数近くにのぼり、当初は「レコーディング中」「コンサート中」を理由にしていたが、松下が司会になって数周间后には「各方面との折り合いがつかず」という理由が使われるようになる。『ザ・ベストテン』はこの顷から徐々に视聴率を下げていった。
- 1986年4月10日には、第1位の少年队の歌唱终了后、放送2日前に自杀した冈田有希子に対して黒柳が「18歳の有希子さんに、悩みを私达分かってあげられなくて本当に申し訳ないし、又残念に思っています」「有希子さんの明るい笑顔と美しいお顔が、永久に皆さんの心に残る事を祈ってます」と、视聴者に対して涙ながらのコメントを述べた。この日スタジオに同席していた、冈田と恳意だった中森明菜と南野阳子、西村知美らも哀しみの表情を浮かべていた。
- 1986年9月25日、小西博之が1年を区切りに司会を卒业すると発表。この日黒柳はアフリカに行っており、VTRで小西にメッセージを伝えた。数日后が小西の诞生日であったため、ケーキが用意され菊池桃子からプレゼントをもらった。
- 1986年10月2日には、3代目男性司会者の松下贤次アナウンサーが登场。正式な司会初日にもかかわらず5组も欠席。
- 1986年10月9日、长野県松本市のあがたの森公园から「450回记念 ザ・ベストテンin松本」を放送。ランクインした中山美穂は放送终了30分前に到着の特急あずさで松本入りし、特设ステージで歌を披露し地元のファンを喜ばせた。
- 1986年12月4日の1位、杉山清贵の「最后のHoly Night」は、ザ・ベストテン史上最低得点での1位(7559点)。
- 1987年4月2日に「ザ・ベストテン延长戦」を放送。これはランキングを1位から顺番に発表し、时间が许すまでランキングを発表していくが、歌手が○×クイズに正解しないと歌えない、という内容。この时西村知美(「シンフォニーの风」、16位)がクイズに连続して间违え(他の出演者は一発正解)、进行が止まってしまったため司会の松下贤次がわざわざ「マルか、バツか?」と言ったのに、西村は「バツ?」と大ボケぶりを発挥した。さすがに溜まりかねた松下は、次の问题で「マルと言って下さい!!」と答えを教えていた。この日の19位は森川美穂「おんなになあれ」。时间がギリギリまで迫っており、何とか歌うことはできたが1番だけであった。20位の曲のみランキングボードが回らなかった。
- 1987年5月7日、どうしても1位が获れないとんねるずが5回目(3曲目)の2位获得。5回とも1位の歌手が违うという珍记録。
- 1987年10月8日、この周が10组フル出场した最后の回になった。またこの回と翌周15日は黒柳が番组を欠席、代わりに全国のJNN各局の人気女子アナがTBSに集合し、松下アナのアシスタントを务めた。当时独身だった松下アナの番组内でのお见合いも兼ねた。
- 1987年12月31日に『ザ・ベストテン电リク祭り』を开催。过去の「ザ・ベストテン豪华版」のハプニング集・5周年记念に放送されたベストテンフェスティバルからの映像が多く使用された。スタジオにはC-C-B・クリスタルキング・桜田淳子・岛田奈美・光GENJI・西村知美・寺尾聪らが集まった。また、里番组の『NHK红白歌合戦』に有力视されながら出场できなかった南野阳子や酒井法子らも駆けつけた。中継先は、翌年3月で廃止される青函连络船の青森駅やビートたけしがテレビ朝日の生番组で草野球をしていた神宫球场などから。なお、VTR出演だが、ベストテンに2年7ヶ月ぶりに登场した久米宏が『ニュースステーション』のセットからコメントを出した。この日、生歌を披露したのは光GENJI・寺尾聪・森川由加里・クリスタルキングの4组。しかし、放送时间の関系で光GENJIの歌唱中に终了。
- また、番组の出演回数が200回を超え当时の番组出演最多记録を夸った田原俊彦に対して、寺尾聪の赤いソファーになぞらえた名前入りの青いソファーが赠られ、スタジオに置かれることになった(田原は最终回まで246回と出演最多记録を伸ばした)。
[编集] 1988年~番组の终焉
- 1988年から「月间ベストテン」开始。月间ベストテンに限り、歌われる曲すべてに歌词のテロップが出た。ところが、1988年2月25日に池田政典の「FORMULA WIND」が通常のウイークリーで10位で初登场したものの、当日は月间ベストテンだったためスタジオでの生歌唱ができず(事前にファンを招いてスタジオで热唱したが、映像として流れたのは10秒程度だった)、翌周には圏外落ちしてしまった。その后は、月间ベストテンで初登场した歌手がいれば、トップバッターで歌わせる処置がとられた。
- 1988年からランキングボードが老朽化のため、新しいものに変更された。制作费は数千万円。得点の表示が4桁から6桁に増え、年间ベストテンの得点表示が可能になった。また、ランプが円から星型になった。4桁时代のランキングボードは、1987年の豪华版终了后に视聴者プレゼントされた。なお、実际に6桁全てを使用したのは计16回。
- 1988年からおなじみのオープニングの絵柄を変更。また、ランキングボードの隣に日付のテロップが设置されるようになる。
- 1988年、550回目记念の公开生放送を行えず、552回目に「ザ・ベストテン大移动・鹿児岛编」を放送。视聴率は鹿児岛地区では70.5%を记録したが、関东地方では初の1ケタ(9.8%)。この年が最后の公开生放送になった。
- 1988年3月31日、2回目の「ザ・ベストテン延长戦」を放送。この日は月间ベストテンという形での延长戦になった。しかし、ランキング绍介が途中(17位)で终わるなど、前年度より段取りの悪い内容だった。理由はクイズまでの映像が长すぎたこと、出演しない歌手のクイズに黒柳が代理で答えたりしたためである。この年で延长戦は廃止された。これらの原因が后に视聴者离れを加速(视聴率初めて8%台にダウン)し、终了に至った远因とされている。
- 1988年6月16日・23日の2周に限り、「私は黒柳」というテーマで黒柳彻子のまねをした女性が松下アナウンサーと司会を进行。サザンオールスターズが3年ぶりに出演。
- 1988年8月4日は、光GENJI・薬师丸ひろ子を迎えて箱根からの生中継。それ以外の歌手は、コンサート会场などからの中継。
- 1988年10月13日から、フジテレビの里番组で『とんねるずのみなさんのおかげです』がスタート。これにより、视聴者层が被っていたザ・ベストテンの视聴率は10%台前半から时には一桁台になるなど悪化した。
- 1988年11月11日の一部新闻で、1989年3月に「ザ・ベストテン打ち切り」という记事が掲载されたが、その时は否定した。
- 1988年11月24日は、月间ベストテンの周で月间にランクインした歌手9组と周间ベストテンで初登场1组の10组出场した。
- 1989年1月5日には、オープニングから8位発表まで、久米宏が司会で登场。その后、生岛ヒロシ・小西博之・草野仁・チャック・ウィルソン・松下贤次が登场。この日が松下の最后の出演で、全员で「干杯」を热唱。なお、元号が昭和の时代としては最后の放送となった。
- 1989年になるとオーケストラ演奏を必要としないバンド系の歌手の増加で、オープニングにバンドが毎周いることがなくなり、オープニング时は歌手席のところに集合する形をとるようになった。
- 1989年1月12日、4代目司会者としてコント赤信号の渡辺正行と柄沢晃弘アナウンサーが登场。柄沢アナは基本的にデータの読み上げなどの补佐に回った。元号が平成になってからの最初の放送となった。
- 1989年2月23日から毎回歌词テロップ表示するようになる(それまで初登场时のみ)。
- 1989年4月6日、ゲスト席がリニューアルされる。先周(3月30日)の放送分が特别番组で中止になったため、先周のランキングも発表した。4月のみ「春の秘蔵映像豪华版」と题して、歌手や视聴者のリクエストに答えて昔の映像を流すようになった。同じ顷、『夜のヒットスタジオ』でも総集编などの形式で过去の映像を流す机会が増えており、両番组でのこの措置は生歌だけでは视聴率がとれない时代に突入していたことを象徴する出来事でもあった。
- 1989年7月6日放送の终了直前に黒柳彻子が、9月で番组が终了することを発表。终了理由としては、「番组开始当初は2分30秒の歌も、现在は平均3分30秒になり长いものは5分近くなっていき、10组フル出场してもらっても満足なインタビューをすることが困难なために、この番组も役目を果たした」との説明がなされた(これはもちろん表向きの理由であり、実际には1988年顷から続いていた视聴率凋落倾向に歯止めがかからなかったこと、アイドル中心からアーティスト中心へ歌手の登场が変わるなど、番组内容などが大きく変わってきたことが打ち切りになった最大の理由である[要出典])。
- 1989年8月24日、黒柳彻子が欠席。渡辺正行が豪华に登场したいと希望したため、派手に登场。また、この回よりTBSのみクリアビジョン放送を开始。(因みに、TBS初のクリアビジョン放送対応番组は当番组である)
- 1989年9月7日の600回目には公开生放送は行われず、スタジオから12年间のベストテンを発表。1位は五木ひろしの「长良川艶歌」。
- 1989年9月14日、「スポットライト」の最终回はC-C-Bが登场。解散直前でシングルメドレーだった。なかなか登场しなかったZIGGYが最初で最后の出演をした。
- 1989年9月21日、第1回目の映像を画面右下で小さく再放送。主音声では通常の生放送を、副音声では第1回目の音声を放送する方式がとられた。なお、歌手が歌っている时やCM中は再放送は流されず、その部分はステレオ放送。
- 1989年9月28日、番组最终回を迎える。10组中5组がスタジオに登场、1组が中継、4组が欠席。欠席の竹内まりやからは电话があった。最终回の1位は工藤静香の「黄砂に吹かれて」。その后「ごくろうさま黒柳彻子さん」という文字と得点999,999点がランキングボードに表示され、12年间の感谢を込めて全员で黒柳を盛り上げた。最终回视聴率は20.4%だった。
- 1989年10月5日に『さよならザ・ベストテン』を放送。歴代の司会者・歌手などが昔の映像を见返して楽しんでいた。番组途中に松山千春が初めてGスタジオに登场。全国各地から出演した歌手からのメッセージも放送された。エンディングには、高田纯次が翌周からの新番组の宣伝に登场。番组のテーマ曲に秋元康作の歌词が付けられたスペシャル・ソングが発表された。
12年间の歴史の中で、番组最多出场歌手は田原俊彦で246回。これを记念して田原には、寺尾聪の赤いソファー(后述)になぞらえて名前入りの青いソファーが赠られ、スタジオに置かれることになった。
[编集] ハプニング・放送事故
生放送のためハプニングは多かった。下记に主なハプニングや放送事故を列记するが、「放送事故」に関してはその旨该当项目冒头に记述する。
- 【放送事故】1985年に「夏ざかりほの字组」(田原俊彦と研ナオコ)の歌唱时、音楽が歌い手に闻こえなくなり、顺番を后に回された。
- 1978年、世良公则&ツイストが「铳爪」の9周连続1位の际、「もう楽屋に谁もいないから」と、発表・コールされる前にスタジオに出てきてしまった。この时彼らは世良を乗せた神舆を担ぎ、「铳爪大明神」と大书した帜を押し立てての登场であった。
- 1980年、长渕刚が中継先で「顺子」の歌唱中に、そばにいた歌手仲间たち(桑名正博、アン・ルイスら)に「あのー、済みませんが失恋の歌なので手拍子はやめてくださいませんか?」と言って演奏を最初からやり直した。
- 1978年、松山千春の生中継を行ったが、スピーチが长引いたため、その后に出演した山口百恵が歌う时间がなくなってしまい、记念撮影だけ参加した。ほかの出演歌手はこの措置に対し不快感を示したが、当时の番组プロデューサーがテレビ出演もせず地道な活动でここまできた松山と、テレビの力で人気になった他の歌手との努力の差を示した上で、松山に対する特别措置に理解を示すよう诉え、事态を収めたという。
- 1983年1月13日、中森明菜がこの日1位にランクインした「セカンド・ラブ」を歌唱中、风邪のために急に声が出なくなってしまい、歌唱终了后に大粒の涙を流した。当初スタッフは口パクでの歌唱を勧めたが、中森本人が「TVを见ている人に対して失礼だから」と拒否したとのこと。エンディングでの中森は、気丈に笑顔を见せようとしながらも涙は止まらないままだった。番组终了后に黒柳は、中森に対して「良いお医者さんがいるの。(松田)圣子ちゃんにも教えているから、是非闻いてみて」と気遣ったという。
- 1983年のある放送で、スタッフの手违いで本来はスタジオの最上部に吊るされるはずの1位のくす玉が误ってスタジオの下部に落ちてしまった。この时の1位歌手・中森明菜はくす玉にわざわざ顔を突っ込んだらしく、この年の年末豪华版でゲストコメンテーターをしていたビートたけしは「女便所をのぞいてるんじゃないんだから…」とコメントした。
- 1984年、杏里が「悲しみがとまらない」の歌唱中、杏里の侧に座っていたチンパンジーが杏里の手を引っ叩いた。そのチンパンジーの态度に杏里は思わず吹き出し、その后笑いを堪えきれず歌えなくなる事态に。
- 1985年、吉几三が「俺ら东京さ行ぐだ」で「今周のスポットライト」に登场した际、1番の途中で歌词をど忘れし、スタジオは大爆笑。初めからやり直した。ベストテンにランクインした周には、歌の前「景気づけに」と黒柳からすすめられた日本酒を饮んだところ、故郷の青森を思い出し涙ぐんでしまった。
- 【放送事故】1985年9月19日、カール・ルイスがゲスト出演した回において番组进行が押してしまい、本来流すべきCMが放送できないという事态が発生した。この际、1分间の番组内CMを1回カットするべきところで、TBSマスター担当者のミスから番组内CMを2回分カットしてしまい、番组最后のCMにおいて、本来関东ローカルで流すべきCM4本を全国放送してしまった。
- 1985年10月17日、「ザ・ベストテンin静冈」において、2位で登场したとんねるずに対して客席は総立ちに。とんねるずは客席から大井川の川越用の舆にのって登场するはずだったが、警备の不备なども重なり観客によって衣装がもみくちゃにされた。激怒した石桥贵明は生放送中にもかかわらず、ステージ上で観客に対して「马鹿野郎!」「てめぇら最低なんだよ!」などと骂声を浴びせたり身に着けている物を投げつけたりし、木梨宪武のフォローも构わず、「雨の西麻布」を怒鸣り声で歌った。その态度に対し番组宛に抗议が杀到し、翌周の放送で石桥が谢罪した。
- 1988年11月3日、南野阳子は3位にランクされた「秋からも、そばにいて」の歌唱の途中で、歌词の一部を忘れ出てこなくなってしまった。秋真っ直中を思わせる沢山の枯叶を敷いた坂のセットで、南野は歩きながら歌っていたが、本人曰く「ロングスカートが枯叶を散らしてしまわないように気をつけていたら、歌词が飞んでしまった」との事。その后は手を震わせながら歌い终え、涙ぐみながら头を下げて谢った。黒柳は南野に台本を见せるために駆け寄ろうとしたが、スタッフに止められたという。翌周の登场时に、ファンから「失恋したのですか?」という南野を心配するはがきが届いたが、南野は「いえ违います、ただのど忘れです。済みませんでした」と笑顔でコメントした。
- スタジオの出演歌手に地方各地の视聴者が中継先から质问を受け付けるコーナーで、シャネルズ(后のラッツ&スター)に対して、ある青年が「黒人のクセに何でシャネルズ(高级ブランド名)なんだ」と质问をした。铃木雅之はとまどいつつも、ブランド名が元になったのではないと答えたが、その后黒柳が「人种差别となる発言となるので、こういった表现をすることはやめてほしい」と注意唤起した。またラッツ&スターになり、初の1位を获得したあまりにその感激で、登场时に势いよく飞び出そうとして回転ドアを壊した(中心部を强く押しすぎてドアが外れて前に飞んだ)こともあった。久米曰く「ちゃんと弁偿していただいた」そうである。
- 番组スポンサーの1社が日立制作所だったにもかかわらず、シャネルズの「ランナウェイ」(パイオニアのラジカセ『ランナウェイ』CMソング)や徳永英明の「风のエオリア」(松下电器産业のエアコン『エオリア』CMソング)といったライバルメーカーのタイアップ曲がランクインしても、タイトルや歌词を差し替えたりすることはなかった。しかし矢沢永吉の「This is Song for COCA-COLA」(当时のコカ・コーラ社のCMソング)に限っては、スポンサー(キリンビール)の関系上タイトルを表记できず、レコード売り上げランキングでは「(C.M.SONG)」と绍介された。「今周の20位から11位まで」のコーナー自体しばらく休止となった。
- 1988年3月31日の「ザ・ベストテン延长戦」で酒井法子の「GUANBARE」が17位にランクされたが、酒井が登场したところで时间切れとなり、全く歌えないまま放送が终了してしまった。そのため翌周の番组冒头に、酒井が中継で改めて登场し曲が披露された。
- 1994年3月29日『ザ・ベストテン同窓会II』にC-C-Bが登场。彼らは解散の际に、ベストテンの「スポットライト」に出演し解散についてのコメント及びヒットメドレーを披露しているが、同窓会IIでC-C-Bが登场した时の黒柳の第一声は「解散した事知らなかったの~」。
[编集] ランキング第1位
- 1位最多获得歌手は中森明菜で计69回。「ベストテンの女王」の异名がある。2位最多获得歌手も中森である。
- くす玉の纸テープや外観は基本的には金色一色が多く、グループでの场合はその人数分のくす玉が用意されたこともあった。光GENJIや少年队といったジャニーズ事务所系列などのグループユニットのアーティストが1位になるとくす玉の数も多くなり、スタジオの天井が纸テープで埋め尽くされたこともある。松田圣子が1位になった时には、ハート型(中身はピンク色一色の纸テープ)のものや、亲子くす玉(割れたくす玉の中にもう一つ小さいくす玉が用意され2つとも割れるようになっている)といったものも用意された。
- アルフィーには「星空のディスタンス」にちなんで「星型のタンス」がプレゼントされた。
- 1978年11月16日の放送では「季节の中で」で1位を获得した松山千春が初めて番组に中継で出演し、歌う前にテレビに出演しない理由を语った后、「テレビで歌うのはこれが最初で最后」と言い、生ギターで歌を热唱した。しかし3年后の1981年に「长い夜」がランクインし、コンサートビデオ映像を流す形で再び出演している(スタジオ出演、生中継はなし)。松山の1位获得曲はこの2曲のみだが、「ルビーの指环」の12周・「铳爪」の10周という连続1位记録のNo.1・No.2を止めたのは、いずれも松山である。
- 1981年6月18日、寺尾聪の「ルビーの指环」が11周连続1位新记録を记念して、前出の赤いソファー・タバコに加えて、出演者のお祝いの言叶を吹き込んだレコードがその场で制作されプレゼントされた。
- 1985年4月4日、C-C-Bの「Romanticが止まらない」が通算100曲目の1位获得曲になったのを记念して、记念テレホンカード(100曲目にちなんで100度数)がこれまでに1位を获得した歌手全员(バンド・ユニットは人数分)に1位获得曲の数だけプレゼントされた。
[编集] 番组终了后(特番など)
- 1989年秋の放送终了后しばらくは、末期に提供していたスポンサーが夜10时枠に移行し、音楽番组『音楽派トゥギャザー』が放送されたが、同年12月に打ち切りとなった。代わって夜9时枠には、1976年9月以来13年ぶりにドラマ枠が复活した。详细はTBS木曜9时枠の连続ドラマを参照。
- 1990年4月に开始した『周刊ワニてれび』で毎月最终金曜日に放送された「极楽ベストテン」内でランキングボードを使ってベストテン形式(ただし番组リクエストは除く)の月间ランキングと上半期ランキングが発表されていた。1990年の上半期1位はLINDBERGの「今すぐKiss Me」。1990年9月の『周刊ワニてれび』终了以降は、同时间帯に月に1度カラオケ番组が放映され、番组の最后に月间ランキングが得点付で発表されていたが、1991年3月で终了した(番组自体は毎周放映になって続いた)。
- 1991年3月から1992年3月ごろまで、不定期で『思い出のベストテン』という30分番组が放送された。ベストテンゆかりの歌手が毎回1组ゲスト出演しベストテンの思い出を语る番组で、ベストテンランクイン曲のVTRを见るほか、エンディングにはゲストが最新曲1曲を热唱。司会は追っかけマンだった生岛ヒロシ、2代目司会者の小西博之、元フジテレビアナウンサーの长野智子。15回あった放送のうち、长野はすべての回で司会を担当。ゲストには山本譲二、中森明菜、早见优、西村知美、原田真二、本田美奈子、チェッカーズ、Wink、関口诚人(元C-C-B)アルフィーほかが出演した。基本的に関东地区のみの放送であったが、関东地区以外の一部の地方でも不定期で放送されていたため、事実上ローカルセールス扱いとなっていた。
- 1991年10月2日には山田邦子と、フジテレビの『オレたちひょうきん族』のコーナーでパロディ版の「ひょうきんベストテン」の司会を务めていた长野智子が司会の『今夜だけ!ご本家复活ザ・ベストテンスペシャル』を放送。田原俊彦・松田圣子・细川たかし・小泉今日子・工藤静香・中山美穂など豪华ゲストがスタジオで昔の映像を见ながらトークしたり、新曲を披露した。久米や黒柳からのVTRでの参加もあった。久米が「山口百恵のお尻を本当に触ったりお尻の肉もつかんだ」とのコメントもあった。
- 1991年12月28日には『総决算!ザ・ベストテン1991年末スペシャル』が放送されたが、槇原敬之・KAN・ドリカムなど当时の人気アーティストによるライブであり、『ザ・ベストテン』本体とはほとんど関