トルコ

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トルコ共和国
Türkiye Cumhuriyeti
トルコの国旗 トルコの国章
国旗 国章
国の标语 : Yurtta Sulh, Cihanda Sulh
(トルコ语: 内に平和、外に平和)
国歌 : 独立行进曲
トルコの位置
公用语 トルコ语
首都 アンカラ
最大の都市 イスタンブル
政府
大统领 アブドゥッラー・ギュル
首相 レジェップ・タイイップ・エルドアン
面积
総计 780,580km²36位
水面积率 1.3%
人口
総计(2004年 68,893,918人(17位
人口密度 88人/km²
GDP(自国通货表示)
合计(2007年 5,953亿新トルコリラ
GDPMER
合计(2005年 3,402亿ドル(21位
GDPPPP
合计(2007年 5,953亿ドル(22位
1人当り 9,063ドル
建国
 - 宣言
共和制宣言
1923年10月29日
通货 新トルコリラTRY
时间帯 UTC +2(DST: +3)
ccTLD TR
国际电话番号 90

トルコ共和国(トルコきょうわこく)、通称トルコ(土耳古)は西アジアアナトリア半岛(小アジア)と东ヨーロッパバルカン半岛东端の东トラキア地方を领有する、アジアヨーロッパの2つの大州にまたがる共和国。首都はアナトリア中央部のアンカラ

北は黒海、南は地中海に面し、西でブルガリアギリシアと、东でグルジアアルメニアイランイラクシリアと接する。

国土の大半の部分はアナトリア半岛にあたり、国民の99%がスンナ派イスラム教信仰するため、日本の地域区分では地理的な位置と、欧州即ちキリスト教というステレオタイプから中东、西アジアに含めることがほとんどであるが、サッカー协会やオリンピック委员会などではヨーロッパの统一団体に属す。経済的、政治的にもヨーロッパの一员として扱われることがあり、现在欧州连合 (EU) へ加盟申请中である。现在欧州でイスラム教徒が人口の过半数を占めている国家はトルコとアルバニアのみである。

目次

[编集] 国名

トルコ语による正式国名は、 Türkiye Cumhuriyeti(テュルキエ・ジュムフリイェティ)ヘルプファイル、通称 Türkiye(テュルキエ)。

公式の英语表记は、Republic of Turkey。通称 Turkey(ターキー。七面鸟を意味する単语と全く同じ缀りおよび発音だが、文章の场合国名の头文字は大文字、鸟は文头に来ない限り头文字が小文字のため区别される)。

英语など诸外国语では、トルコ共和国の前身であるオスマン帝国の时代から、この国家を Turkey, Turquie など、「トルコ人 (Turk, Turc) の国」を意味する名で呼んできたが、トルコ共和国の前身で、元来多民族国家であったオスマン帝国の侧では「オスマン国家」、「オスマン家の王朝」などの名称が国名として用いられており、自己をトルコ人の国家と认识することはなかった。トルコ语で「トルコ人」を意味する Türkアラビア语起源の抽象名词化语尾 -iye を付した Türkiye近代になってヨーロッパから「トルコ人の国」概念を逆输入して考案された名词である。

第一次世界大戦后、国土が列强に分割されほぼアナトリア半岛のみに缩小したオスマン帝国に代わって新しい政権を打ち立てた人々は、初めて Türkiye を国名とし、かつてのオスマン国家は、他称においても自称においても「トルコ人の国」であるトルコ共和国となる。

なお、Türkテュルク)は、アナトリアへの移住以前、中央アジアで暮らしていたトルコ人が、モンゴル高原を中心とする游牧帝国突厥を筑いた6世纪ころにはすでに使われていた民族名だが、语源は明らかではない。现在のトルコ共和国では一般に、突厥の建国を以って「トルコの建国」と考えている。

日本语名のトルコは、西欧の诸言语でトルコ人を意味するトゥルク (Turk, Turc) の変形である。汉字土耳古は、この音を中国语で音訳した「Tŭ'ĕrgŭ」に由来する。

[编集] 歴史

详细はトルコの歴史を参照

トルコの国土の大半を占めるアジア侧のアナトリア半岛(小アジア)とトルコ最大の都市であるヨーロッパ侧のイスタンブルは、古代からヒッタイトフリュギアリディアビザンツ帝国などさまざまな民族文明が栄えた地である。

11世纪に、トルコ系イスラム王朝セルジューク朝の一派がアナトリアに立てたルーム・セルジューク朝の支配下で、ムスリム(イスラム教徒)のトルコ人が流入するようになり、土着の诸民族とが対立・混交しつつ次第に定着していった。彼らが打ち立てた群小トルコ系君侯国のひとつから発展したオスマン朝は、15世纪にビザンツ帝国を灭ぼしてイスタンブルを都とし、东はアゼルバイジャンから西はモロッコまで、北はウクライナから南はイエメンまで支配する大帝国を打ち立てる。

19世纪になると、衰退を示し始めたオスマン帝国の各地では、ナショナリズムが勃兴して诸民族が次々と独立してゆき、帝国は第一次世界大戦の败北により完全に解体された。しかしこのとき、戦胜国の占领を嫌ったトルコ人たちはアンカラに抵抗政権を树立したムスタファ・ケマル(アタテュルク)のもとに结集して戦い、现在のトルコ共和国の领土を胜ち取った。

1923年、アンカラ政権は共和制を宣言。翌1924年オスマン王家カリフをイスタンブルから追放して、西洋化による近代化を目指すイスラム世界初の世俗主义国家トルコ共和国を建国した。第二次世界大戦后、ソ连に南接するトルコは、反共の防波堤として西侧世界に迎えられ、NATOOECDに加盟する。国父アタテュルク以来、トルコはイスラムの复活を望む人々などの国内の反体制的な势力を强権的に政治から排除しつつ、西洋化を迈进してきた(ヨーロッパ评议会への加盟、死刑制度の廃止など)が、その最终目标であるEUへの加盟にはクルド问题キプロス问题アルメニア人虐杀问题、ヨーロッパ诸国の反トルコ・イスラム感情などが大きな障害となっている。

[编集] 政治

详细はトルコの政治トルコの法制度トルコの国际関系をそれぞれ参照

1982年に定められた现行の宪法では、世俗主义(政教分离原则)が标榜されている。三権は分立しており、立法府として一院制のトルコ大国民议会Türkiye Büyük Millet Meclisi、定数550名、任期5年)が强い権限をもつ。行政は议会によって选出される国家元首大统领(任期7年)が务めるが、首相の権限が强い议院内阁制に基づいている。司法府は、下级审である司法裁判所、刑事裁判所、および控诉审である高等控诉院、宪法裁判所で构成され、通常司法と军事司法に分离されている。

政治は多党制の政党政治を基本としているが、政党の离合集散が激しく、议会の选挙は小党乱立を防ぐため、10%以上の得票率を获得できなかった政党には议席がまったく配分されない独特の方式をとっている。この制度のために、2002年の総选挙では、选挙前に中道右派・イスラム派が结集して结党された公正発展党と、野党で中道左派系・世俗主义派の共和人民党の2党が地すべり的な胜利を収め、议席のほとんどを占めている。2007年7月22日に実施された総选挙では、公正発展党 (AKP) が前回を12ポイントを上回る総得票率47%を获得して圧胜した。共和人民党が议席を减らし、112议席を获得。极右の民族主义者行动党 (MHP) が得票率14.3%と最低得票率10%以上の票を获得し71议席を获得、结果的に公正発展党は340议席となり、前回より12议席を减らすこととなった。独立候补は最低得票率の制限がなく、クルド系候补など27议席を获得した。

外交面では、北大西洋条约机构 (NATO) 加盟国として伝统的に西侧の一员である。

EUとトルコ

また、外交面では欧州连合 (EU) への加盟を长年の目标としてきた。2002年に政権についた公正発展党は、イスラム系を中心とする政党ながら军との距离を慎重に保って人権问题を改善する改革を进めてきた。2004年には一连の改革が一応の评価を受け、条件付ではあるものの欧州委员会によって2005年10月からのEUへの加盟交渉の开始が勧告された。しかし、その后のEU加盟交渉はさまざまな要因から停滞している。

Maslak - Istanbul

国父ケマル・アタテュルク以来强行的に西欧化を押し进めてきたトルコでは、その歴史においてケマルをはじめ、政治家を数多く辈出した军がしばしば政治における重要なファクターとなっており、政治や経済の混乱に対してしばしば圧力をかけている。1960年に军は最初のクーデターを起こしたが、その后、参谋総长と陆海空の三军および内务省ジャンダルマ(宪兵队)の司令官をメンバーに含む国家安全保障会议 (Milli Güvenlik Kurulu) が设置され、国政上の问题に対して内阁に圧力をかける実质上の政府の上位机関と化しているが、このような军部の政治介入は、国民の军に対する高い信頼に支えられていると言われる。1980年の二度目のクーデター以降、特にイスラム派政党の势力伸张に対して、军は「ケマリズム」あるいは「アタテュルク主义」と呼ばれるアタテュルクの敷いた西欧化路线の护持を望む世俗主义派の拥护者としての性格を前面に打ち出している。军は1997年にイスラム派の福祉党主导の连立政権を崩壊に追い込み、2007年には公正発展党による同党副党首の大统领选拥立に対して悬念を表明したが、この政治介入により国际的な非难を浴びた。8月29日には、议会での3回の投票を経てアブドゥラー・ギュル外相が初のイスラム系大统领として选出された。

[编集] 军事

トルコには军事组织として、陆军・海军・空军で组织されるトルコ军 (Türk Silahlı Kuvvetleri) と内务省に所属するジャンダルマ(宪兵队、Jandarma)・沿岸警备队 (Sahil Güvenlik) が置かれている。トルコは良心的兵役拒否を认めない完全な国民皆兵制度(ただし男性のみ)をとっているため兵员定数はないが、三军あわせておおむね65万人程度の兵员数である。また、ジャンダルマ・沿岸警备队は戦时にはそれぞれ陆军・海军の指挥下にはいることとされている。ただし、ジャンダルマについては、平时から陆军と共同で治安作戦などを行っている。

指挥権は平时には大统领に、戦时には参谋総长 (Genelkurmay Başkanı) に属すると宪法に明示されており、戦时においてはトルコには文民统制は存在しない。また、首相および国防大臣には军に対する指挥権・监督権は存在しない。ただし、トルコ军は歴史的にも、また现在においてもきわめて政治的な行动をとる军队であり、また、国防予算の15%程度が议会のコントロール下にない军基金・国防産业基金等からの歳入であるなど、平时においてもトルコ军に対する文民统制には疑问も多い。

军事同盟には1952年以降NATOに加盟し、1992年以降はWEUに准加盟している。また、1979年それ自体が崩壊するまでCENTO加盟国でもあった。2国间同盟としては1996年イスラエルと军事协力协定および军事産业协力协定を缔结しており、1998年には実际にアメリカ合衆国・イスラエル・トルコの3国で共同军事演习が行われた。

トルコ南东部においてはPKKとの戦闘状态が长年続いている。特に近年はイラク北部に拠点を构えるPKKを扫讨する目的で、陆军によるイラク国内への侵攻や空军による越境空爆などがしばしば実行されている。

[编集] 地方行政区分

详细はトルコの地方行政区画を参照

トルコの地方行政制度はオスマン帝国の州県制をベースとしてフランスに范をとり、全土を県 (il) と呼ばれる地方行政区画に区分している。1999年以降の県の総数は81である。各県には中央政府の代理者として知事 (vali) が置かれ、県の行政机関 (valilik) を统括する。県行政の最高権限は4年任期で民选される県议会が担い、県知事は県议会の决定に従って职务を遂行する。

県の下には民选の首长を有する行政机関 (belediye) をもった市 (şehir) ・郡 (ilçe) があり、郡の下には自治体行政机関のある市・町 (belde) と、人口2000人未満で自治体権限の弱い村 (köy) がある。イスタンブル、アンカラなどの大都市行政区 (büyük şehir) は、市の中に特别区に相当する自治体として区 (ilçe) とその行政机関 (belediye) を复数もち、都市全体を市自治体 (büyük şehir belediyesi) が统括する。

[编集] 地理

国土はヨーロッパ大陆アジア大陆にまたがり、北の黒海と南のエーゲ海地中海を繋ぐボスポラス海峡マルマラ海ダーダネルス海峡によって隔てられる。アナトリア半岛は中央に広大な高原と海沿いの狭小な平地からなり、高原の东部はチグリス川ユーフラテス川の源流である。东部イラン国境近くにはヴァン湖アララト山がある。国内最高所は标高5166mである。

気候帯は内陆は冷帯気候ステップ気候で夏は干燥し、冬は寒く积雪が多い。地中海沿いなど海に近い部分は地中海性気候で、オリーブなどの生産が盛んである。

トルコは国内に多くの断层をもつ地震国であり、1999年にはイズミルからイスタンブルにかけてのマルマラ海沿岸の人口密集地で大规模地震が起こり、大きな被害を受けた。なお、他の地震国の多く同様、国内に数多くの温泉が存在し、中にはヒエラポリス-パムッカレなど世界遗産の中に存在するものもある。

[编集] 主な都市

トルコのサテライトイメージ

トルコの都市人口率は2003年时点で66.3%であり、世界平均より20ポイント高く、比较的都市への人口集中が进んでいるといえる。三大都市圏として2大陆にまたがるイスタンブル(都市的地域人口955万5000人、2003年)、首都アンカラ(372万9000人)、港湾都市イズミル(229万9000人)が挙げられる。都市的地域人口が100万人を超える都市は、ブルサ、アダナ、同50万人を超える都市は、ガズィアンテプ、コンヤ、アンタルヤ、ディヤルバクル、イチェル、カイセリ、メルシンである。このうち、アナトリア高原など山岳部に位置する都市は、アンカラ、ガズィアンテプ、コンヤ、ディヤルバクル、カイセリ。国の东部には小规模な都市が目立ち、特に东北部、または黒海沿岸には都市への人口の集中があまりみられない。

[编集] 経済

详细はトルコの経済を参照

産业は近代化が进められた工业商业と、伝统的な农业とからなり、农业人口が国民のおよそ40%を占める。渔业も目立たないが沿岸部では比较的盛んで、领海问题や公海上の渔获量をめぐる国际问题が起きることもある。现在日本国内でトルコリラ建ての外货预金を商品化しているのは香港上海银行のみ。

[编集] 工业

工业は軽工业が中心で、繊维・衣类分野の输出大国である。近年では、世界の大手自动车メーカーと国内の大手财阀との合弁事业が大きな柱となっており、ヨーロッパ向け自动车输出が有力な外货获得源になっている。具体的には、国内最大の财阀であるサバンジュ财阀日本トヨタ自动车、国内2位の财阀であるコチ财阀イタリアフィアット、国内4位の财阀であるオヤック财阀フランスルノーがあげられる。また、コチ财阀のアルチェリッキ・ベコ、ゾルル财阀のヴェステルなど、家电・エレクトロニクス部门の成长も期待されている。

[编集] 农业

ただし、工业化が进んでいるのは北西部のマルマラ海沿岸地域がほとんどで、観光収入の多い地中海エーゲ海沿岸地域と、首都アンカラ周辺地域以外では农业の比重が大きい。とくに东部では、地主制がよく温存されているなど経済近代化の立ち遅れが目立ち、农村部の贫困や地域间の経済格差が大きな问题となっている

[编集] 鉱业

トルコの国土は鉱物资源に恵まれている。有机鉱物资源では石炭の埋蔵量が多い。2002年时点では亜炭褐炭の采掘量が6348万トンに达した。これは世界シェアの7.0%であり、世界第6位に位置する。しかしながら高品位な石炭の生産量はこの1/20に过ぎない。原油(252万トン)と天然ガス(12千兆ジュール)も采掘されている。

金属鉱物资源では、世界第2位(200万トン、世界シェア17.9%)のマグネシウムをはじめ、アンチモンボーキサイトを産出する。

しかしながら、石炭は発电など燃料として国内で消费し、石油の生産量は国内消费をまかなう量がないこと、マグネシウムの国际価格が低迷していることから、同国の输出に占める鉱物资源の割合は低く、4%程度(2002年时点)に过ぎない。

[编集] 経済成长

1990年代の后半から経済は低调で、政府は巨额の债务を抱え、国民は急速なインフレーションに悩まされている。歴代の政権はインフレの自主的な抑制に失败し、2000年からIMFの改革プログラムを受けるに至るが、同年末に金融危机を起こした。この结果、トルコリラの下落から国内消费が急激に落ち込んだ。

2002年以后は若干持ち直し、実质GNP成长率は5%以上に复调、さらに同年末に成立した公正発展党単独安定政権のもとでインフレの拡大はおおよそ沉静化した。2005年1月1日には100万トルコリラ (TL) を1新トルコリラ (YTL) とする新通货を発行し、実质的なデノミネーションが行われた。

[编集] 贸易

トルコの贸易は慢性的に赤字が続いている。2003年时点では输出466亿ドルに対し、输入656亿ドルであった。ただし、サービス収支、例えば観光による収入(90亿ドル、2002年)、所得収支、例えば海外からの送金などが多额に上るため、経常収支はほぼバランスが取れている。

输出・输入とも过半数を工业制品が占める。世界第2位の生産量を占める毛织物のほか、毛纟、绵纟、绵织物、化学繊维などの生産量がいずれも世界の上位10位に含まれる、厚みのある繊维産业が输出に贡献している。衣料品を输出し、机械类を输入するという构造だ。

输出品目では工业制品が83.2%を占め、ついで食料品9.9%、原材料・燃料5.0%である。工业制品では衣类21.1%、繊维・织物11.1%、自动车 10.5%、电気机械8.6%が主力。鉄钢も输出している。输出相手国はヨーロッパ圏が主力であり、ドイツ15.8%、アメリカ合衆国7.9%、连合王国 7.8%、イタリア6.8%、フランス6.0%の顺である。日本に対する最大の输出品目はマグロ (21.7%)、ついで衣料品である。

输入品目でも工业制品が65.9%に达する。ついで原材料・燃料21.3%、食料品4.0%だ。品目别では机械类13.4%、电気机械9.2%、自动车 7.7%、原油6.9%、繊维・织物5.0%である。输入相手国も欧州が中心だ。ドイツ13.6%、イタリア7.9%、ロシア7.9%、フランス 6.0%、连合王国5.0%の顺である。日本からの最大の输入品目は乗用车 (12.1%)、ついで自动车用部品である。

[编集] 交通

トルコにおいて交通の中心となっているのは、旅客・货物ともに陆上の道路交通である。鉄道国鉄 (TCDD) が存在し10,940kmの路线を保有・运営しているが、きわめて便が少なく不便である。また、駅舎・路线・その他设备は整备が不十分で老朽化が进んでいる。2004年には国鉄は最高时速160kmの新型车両を导入したが、7月にその新型车両が脱线事故を起こし39名の死者を出した。これは、路线整备が不十分なまま新型车両を见切り発车的に导入したことが原因といわれている。この事故は国鉄の信頼性を一层低下させ、その后鉄道乗客数は激减している。2007年、4月23日、エスキシェヒールアンカラ间にて高速鉄道が开通した。

トルコ政府は道路整备を重视しており、トルコ国内の道路网は2004年现在63,220kmにおよんでいる。また、イスタンブルアンカラを结ぶ高速道路 (Otoyol) も完成间近である。货物输送はもちろん、短距离・长距离を问わず旅客输送の中心もバスによる陆上输送が中心で、大都市・地方都市を问わずトルコの都市にはかならず长距离バスターミナル (Otogal/Terminal) が存在し、非常に多くのバス会社が多数の路线を运行している。また、世俗主义国家であるとはいえイスラム教国であるため、これらのバスでは亲子や夫妇などを除き男女の相席をさせることはまずない。

トルコでは雇用所得がまだ低いことや、高额の自动车税(1600cc未満28%、1600cc以上40%)、非常に高価なガソリン価格(2008年现在1リットル当たり3.15YTL(约280円)程度)のために、自家用车の普及はあまり进んでいない。また、农村部においては现在でも人的移动や农作物の运搬のためにトラクターを用いることはごく普通である。农村部や地方都市において露天バザールが开催される日には、アンカラやイスタンブルとはかけ离れたこれらの光景をよく目にすることができる。

[编集] 国民

トルコ共和国の位置するバルカン半岛アナトリア半岛は、古来より多くの民族が频繁に往来した要冲の地であり、复雑で重层的な混血と混住の歴史を缲り返してきた。现在のトルコ共和国成立の过程にも、これらの地域事情が色浓く反映されている。

トルコ共和国以前に存在した多民族国家のオスマン帝国では、このような地域事情を反映し、民族や出自に対する意识が希薄であった。代わりに各自の信奉するイスラム教キリスト教といった宗教こそが、永らく人々のアイデンティティ形成と维持に主导的な役割を果たしてきたといえる。このため、国民国家としてのトルコ共和国成立に伴い、国内における民族意识の醸成が急务となっていたが、国内最大多数派であるトルコ人ですら、何をもってトルコ人と定义するのかを画一的に判断することが非常に困难であった。このことは、1830年のギリシャ独立以降、トルコと隣国ギリシャ间でバルカン半岛とアナトリア半岛をめぐり领土纷争の勃発する要因となり、1922年に纷争の抜本的解决を目的に缔结された住民交换协定では、トルコ国内に住む正教会信者のトルコ语话者は「ギリシャ人」、逆にギリシャ国内に住むイスラム教徒のギリシャ语话者は「トルコ人」と规定され、それぞれの宗教が多数派を形成する国々への出国を余仪なくされている。

こうした経纬もあり、长年国内の民族构成に関する正确な调査が実施されず、トルコ政府は、国内に居住するトルコ国民を一体として取り扱い、国民はすべてトルコ语を母语とする均质な「トルコ人」であるという建前を取っていた。しかしながら、実际には共和国成立以前から东部を中心にクルド人をはじめ多くの少数民族が居住する现状を否定することができず、现在では、民族的にトルコ人ではない、あるいはトルコ语を母语としない国民も国内に一定割合存在することを公式に认めている。

少数派の民族としては、クルド人アラブ人ラズ人ギリシャ人アルメニア人ヘムシン人ザザ人ガガウズ人などが共和国成立以前から东部を中心に居住している。特に、クルド人はトルコ共和国内でトルコ人に次ぐ多数派を构成しており、その数は数百万人とも、一千万人を超えるとも言われている。かつてトルコ政府はトルコ国内にクルド人は存在しないとの立场から、クルド语での放送・出版を禁止する一方、「山岳トルコ人」なる呼称を用いるなど、差别的に取り扱いしていた。しかしながら、现在では少数民族の存在を认める政府の立场から、山岳トルコ人という呼称は用いられることがない。2004年にはクルド语での放送・出版も公に解禁され、旧民主党(DEP : 共和人民党から分离した民主党 (DP) とは别组织)ザナ党首の釈放と同日に、国営放送第3チャンネル (TRT3) においてクルド语放送が行われた。

なお、クルド人はいわゆる北部クルディスタン(南东アナトリア地域)にのみ偏在しているわけではなく、地域により格差はあるものの、トルコ国内の81県全域にある程度のまとまりを持った社会集団として分布している。実际、クルド系政党民主国民党 (DEHAP) はトルコ全域で政治活动を展开し、総选挙において一定の影响力を保持している。1960年以降は全国的な农村部から都市への移住が増加にともないクルド人も都市部への移住が进み、现在はクルド人の都市居住者と农村部居住者との割合が大幅に変化しているとみられる。ある推计によると、1990年以降もっとも多数のクルド人が存在するのは、南东アナトリア6県のいずれでもなく、イスタンブル県であるとの结果も存在する。各都市のクルド人は、その多くが所得水平の低い宗教的にも敬虔なイスラム教徒であるといわれており、昨今の都市部における大衆政党として草の根活动を行ってきたイスラム系政党跃进の一因と结びつける见方も存在する。

宗教构成は、宗教の帰属が身分证明书の记载事项でもあることからかなり正确な调査结果が存在する。それによると、人口の99%以上がムスリム(イスラム教徒)である。一方、各宗派に関しては、身分证明书にその记载事项がないことから、宗教のように详细な宗派区分の把握ができておらず不明な点も多い。その结果、通用にはムスリムを信奉するトルコ国民の大半はスンナ派に属するといわれているが、一方で同じイスラム教の中でマイノリティであるアレヴィー派の信奉者がトルコ国内にも相当数存在しているとの主张もあり、一説には20%を越えるとも言われている。

その他の宗教には东方正教会アルメニア使徒教会ユダヤ教カトリックプロテスタントなどが挙げられるが、オスマン帝国からトルコ共和国成立までに至る経纬から、いずれもごく少数にとどまる。

一方で、东方正教会の精神的指导者かつ第一人者であるコンスタンディヌーポリ総主教イスタンブルに居住しており、正教徒がごく少数しか存在しないトルコに东方正教会の中心地がある状况が生み出されている。トルコ国内にある东方正教会の神品を养成するためのハルキ神学校は1971年から政府命令によって闭锁されており、东方正教会へのトルコ政府からの圧迫の一つとなっている。

[编集] 人口

1961年から2003年の人口推移グラフ

[编集] 教育

义务教育机関として、8年制の初等教育学校 (ilk öğretim okulu) が置かれ、そのほか4年制(2004年9月入学以降、それ以前は3年制)の高等学校 (lise)、大学 (üniversite) などが置かれている。ほかに就学前教育机関として幼稚园 (anaokulu) なども存在する。初等教育学校を含めほぼ全ての学校が国立だが、私立学校も存在する。ただし、私立学校の1ヶ月间の学费は、给食费・施设费等込みで一般労働者の月収とほぼ同等で、きわめて高価である。

公立高校・公立大学への入学にはそれぞれLGS・ÖSSの受験を必要とし、成绩顺で入学校を决定する。トルコにも受験竞争は存在し、高校入试・大学入试のために (dershane) に通うことも珍しくない。

教员数・教室数はともに十分な数には达しておらず、初等教育学校は午前・午后の二部制である。また学校设备も不十分で、体育馆プールなどは公立学校にはまず存在しない。特に大都市の学校では运动场は狭くコンクリート张りで、バスケットボールフットサルが精一杯である(地方においては芝生のサッカー场などを持つ学校も多い)。また、図书馆も存在しないか、あっても不十分である。学校设备の问题に関しては国も认识し、世界银行からの融资を受けるなどして改善を図っているが、厳しい财政事情もあって改善が进まないのが现実である。

2004年现在、男子児童の就学率は统计上ほぼ100%に到达したが、女子児童の非就学者は政府発表で65万人程度存在し、トルコ政府は、「さあ、女の子たちを学校へ (Hadi Kızlar Okula)」キャンペーンを展开するなどその解消に努めている。しかし、女子非就学者の问题には、経済事情に加え、男女共学のうえ、未だ保守的なイスラムを奉ずる地域ではヘッドスカーフ着用禁止の初等教育学校に通わせることを宗教的な観点から问题视する亲が存在するという事情もあり、女子非修学者の减少はやや头打ちの状态である。

[编集] 文化

トルコの国土は、ヒッタイト古代ギリシアローマ帝国イスラームなどさまざまな文明が栄えた地であり、诸文化の混交がトルコ文化の基层となっている。これらの人々が残した数多くの文化遗産、遗迹、歴史的建筑が残っており、世界遗産に登録されたものも9件に及ぶ(详しくはトルコの世界遗産を参照)。

トルコの伝统的な文化はこのような基层文化にトルコ人が中央アジアからもたらした要素を加えて、东ヨーロッパから西アジアの诸国と相互に影响を受けあいながら発展してきた。

例えば、世界三大料理のひとつとも言われるトルコ料理は、その実ではギリシャ料理シリア地方の料理とよく似通っているし、伝统的なトルコ音楽のひとつオスマン古典音楽アラブ音楽との関系が深く、现代のアラブ古典音楽で演奏される楽曲の多くはオスマン帝国の帝都イスタンブルに暮らした作曲家が残したものである。

建筑は、イランとビザンチン双方の影响を受け、トルコ独自の壮丽なモスクやメドレセなどの建筑文化が花开いた。その最盛期を担ったのがミマール・スィナンであり、スレイマン・ジャミィなどに当时の文化を垣间见ることができる。

俗にトルコ风吕などと呼ばれている公衆浴场文化(トルコ本国においては性风俗店の意味はなく、伝统的浴场の意である。详细は下记参照)は、中东地域に広く见られるハンマームの伝统に连なる。逆に、中东、アラブの后宫として理解されているハレムとは実はトルコ语の语汇であり、多くの宫女を抱えたオスマン帝国の宫廷のイメージが、オリエンタリズム的な幻想に乗って伝えられたものであった。

近现代のオスマン帝国、トルコは、ちょうど日本の文明开化と同じように、西欧文明を积极的に取り入れてきたが、それとともにトルコ文学、演剧、音楽などの近代芸术は、言文一致运动や言语の纯化运动、社会运动などと结びついてトルコ独自の歴史を歩んできた。

こうした近代化の一方で、歴史遗産の保全に関しては立ち遅れも见られる。无形文化财ではオスマン古典音楽の演奏者は着しく减少し、また剣术、弓术などいくつかの伝统的な技芸は既に失われた。有形の遗迹もオスマン帝国时代以来のイスラム以前の建筑物に対する无関心は现在も少なからず残っており、多くの遗迹が长らく管理者すら置かれない事実上の放置状态に置かれてきた。近年は、いくつかの有名なギリシャ・ローマ时代の遗迹やイスラム时代の建筑が観光化されて管理が行き届くようになったが、依然として多くの遗迹は风化の危机にさらされている。このような状况に対する悬念も表明されているが、その保全対策は财政事情もありほとんどまったく手付かずの状态である。

[编集] スポーツ

トルコにおいて国民的なスポーツとしては、まずサッカー(トルコ语でfutbol:発音フトボル)があげられる。国内には18のプロクラブが参加するシュペルリグ (Süper Lig) を顶点に2部リーグ、3部リーグ、さらにその下部の地域リーグが置かれ、プロ・アマ合わせれば膨大な数のクラブが存在する。また、サッカークラブの多くは総合スポーツクラブの一部であり、バスケットボール・バレーボールなど、他种目のスポーツチームを同じクラブが抱えることも多い。

トルコはUEFA加盟国であるため、シュペルリグ上位クラブはUEFAチャンピオンズリーグUEFAカップに参加可能である。その中でもイスタンブルのフェネルバフチェ (Fenerbahçe) ・ガラタサライ (Galatasaray) ・ベシクタシュ (Beşiktaş) とトラブゾンのトラブゾンスポル (Trabzon Spor) は4大クラブと呼ばれ、テレビ・新闻などでの报道量も他に比べ抜群に多い。これらのクラブは実力的にも上位にあるためUEFA主催のリーグに参加することも多い。UEFA主催のリーグに参加するクラブは、なかばトルコ代表として扱われることもあり、これらの强豪は地域にかかわらず全国的に人気がある。また、イスタンブルのフェネルバフチェ・ガラタサライ・ベシクタシュの3クラブは、イスタンブル证券取引所に上场する上场企业でもある。2004-05シーズンのUEFAチャンピオンズリーグの决胜はイスタンブルアタテュルク・オリンピヤット・スタディで行われ、イスタンブールの奇迹が起こった。サッカートルコ代表2002 FIFAワールドカップで3位に入るなど健闘した。この大会では日本と韩国に胜利しており、同一大会で2つの开催国に胜つという珍しい记録を达成した。また优胜したブラジルには2回败北している。

ほかにプロスポーツとしてはバスケットボールバレーボールのプロリーグが存在する。特にバスケットボールはNBAでのトルコ人选手の活跃や2010年の世界选手権を控えていることもあり、近年人気が上升している。

また、2005年からはF1トルコGPが开催されており、WRCのラリー・オブ・ターキーとあわせて、モータースポーツにおける発展も期待できる。

650年の歴史をもつ伝统格闘技としてヤールギュレシ(オイルレスリング)があり、トルコ共和国の国技となっている。アマチュアスポーツとしては、レスリング重量挙げなどに人気がある。またトルコ人の気风を反映してか、柔道