平冢らいてう
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平冢 らいてう(ひらつか らいちょう、1886年(明治19年)2月10日 - 1971年(昭和46年)5月24日は、日本の思想家・评论家・作家・フェミニスト。明治时代末からの女性解放运动・妇人运动の指导者で、后年には平和运动にも関わった。表记は一定せず、汉字で雷鸟と书く场合や、塩原事件で有名になったために、本名の平冢 明(ひらつか はる)や平冢明子で评论の俎上に上がることもある。
目次 |
[编集] 生涯
[编集] 出自
1886年(明治19年)2月10日、东京府麹町区三番町に3人姉妹の末娘として生まれる。本名は平冢明(ひらつかはる)。生まれつき声帯が弱く、声の出にくい体质だった。父・平冢定二郎は纪州藩士の出で明治政府の高级官吏(会计検査院に勤务)、のちに一高の讲师も勤めた。母・光沢(つや)は徳川御三卿のひとつ田安家奥医师の饭岛家の出。
一説によると、関ヶ原の合戦(1600年)で戦死した西军の武将平冢为広(大谷吉継の与力・美浓垂井1万2000石)の末裔とも言われ、为広が讨ち取られたとされる场所には彼女の意向で创建された慰霊碑が现存する。
[编集] 平冢明
幼少时は、1887年(明治20年)から1年半欧米を视察巡游した父の影响で、ハイカラで自由な环境で育った。しかし、1892年(明治25年)に富士见小学校に入学してまもなく、父は従来の欧米的な家风を一夜にして舍て去り、国粋主义的な家庭教育を施すようになった[1]。
1894年(明治27年)、平冢家は本郷驹込曙町に引越し、明は诚之小学校に転入。1898年(明治31年)に诚之小学校高等科を卒业し、父の意思で当时国粋主义教育のモデル校だった东京女子高等师范学校附属高等女学校に入学させられ、「苦痛」の5年间を过ごす。ただし、テニス部で活跃したり、修身の授业をサボる「海贼组」を组织するなどそれなりには楽しんでいたらしい。
1903年(明治36年)に「女子を人として、妇人として、国民として教育する」という教育方针に憧れて日本女子大学校家政学部に「女子には女学校以上の学问は必要ない」という父を説得して入学。しかし、翌年に日露戦争が勃発すると、徐々に国家主义的教育の度合いが强くなり、その中にお茶の水时代と同じ思想を见出すと大学生活にひどく幻灭した。この顷から、自分の葛藤の理由を求めるために宗教书や哲学书などの読书に没头する。1905年(明治38年)には禅の存在を知り、日暮里にある禅の道场「両忘庵」に通い始めるようになった。1906年(明治39年)に日本女子大学校を卒业。両忘庵で禅の修行をしながら、二松学舎、女子英学塾で汉文や英语を学び、1907年(明治40年)にはさらに成美女子英语学校に通うようになった。
成美女子英语学校でテキストとして使われたゲーテの『若きウェルテルの悩み』で初めて文学に触れ、文学に目覚める。东京帝大出の新任教师生田长江に师事し、生田と森田草平が主催する课外文学讲座「闺秀文学会」に参加するようになった。生田の勧めで処女小説「爱の末日」を书き上げ、それを読んだ森田が才能を高く评価する手纸を明に送ったことがきっかけで、二人は恋仲になった。
1908年(明治41年)2月1日に初めてのデートをするが、同年3月21日に塩原事件[2]と呼ばれる心中未遂事件を起こす。新闻はある事ない事を面白く书き立て、明の顔写真まで掲载した。明は一夜にしてスキャンダラスな存在となり、日本女子大学校に至っては桜枫会の名簿から明の名を抹消している。その后、1992年(平成4年)に复活する(『日本女子大学学园事典』)。
[编集] らいてうの诞生
明は、塩原事件を机に、性差别や男尊女卑の社会で抑圧された女性の自我の解放に兴味を持つようになっていた。この顷、生田长江の强いすすめで、日本で最初の女性による女性のための文芸志『青鞜』[3]の制作に入った。资金は母からの援助で「いつか来るであろう娘明の结婚资金」を切り崩したもの。その资金を元に青鞜社を立ち上げ、企画は明の同窓生や同年代の女性に拠り、明は主にプロデュースに回った。
表纸は长沼智恵[4]が描き、与谢野晶子が「山の动く日来る」の一节で有名な「そぞろごと」という诗を寄せた。明は『元始女性は太阳であつた - 青鞜発刊に际して』という创刊の辞を书くことになり、その原稿を书き上げた际に、初めて「らいてう」[5]という笔名を用いた。
『青鞜』创刊号は、1911年(明治44年)9月に创刊され、男女で両极端な反响を巻き起こした。女性の読者からは手纸が杀到し、时には平冢家に访ねてくる読者もいたほどだったが、その一方、男性の読者あるいは新闻は冷たい视线で、青鞜社を揶揄する记事を书き、时には平冢家に石が投げ込まれるほどだった。
[编集] 新しい女
青鞜社に集まる女性が「五色の酒事件」や「吉原登楼事件」などの事件を起こすと、平冢家には投石が相次いだ。しかし、らいてうはそれをさほど意に介せず、「ビールを一番沢山呑むだのは矢张らいてうだった」と编集后记に书いて社会を挑発するだけの余裕があった。そのうちに「新しい女」というレッテルを贴られるようになった。すると、らいてうは『中央公论』の1913年(大正2年)1月号に「私は新しい女である」という文章を掲载すると同时に妇人论を系统立てて勉强し始め、同年の『青鞜』の全ての号には、付録として妇人问题の特集が组み込むようになった。この特集でらいてうは母性主义の思想家エレン・ケイを知り、大きな影响を受けた。しかし、『青鞜』の1913年2月号の付録で福田英子が「共産制が行われた暁には、恋爱も结婚も自然に自由になりましょう」と书き、「安宁秩序を害すもの」として発禁に処せられると、らいてうは父の怒りを买い、家を出て独立する准备を始めることになった。
青鞜社は『青鞜』の他にも1912年(大正元年)末に冈本かの子の诗集『かろきねたみ』を皮切りに、翌1913年3月に『青鞜小説集』などを出版している。同年5月にらいてうの処女评论集『円窓より』も出ているが、出版直后に「家族制度を破壊し、风俗を壊乱するもの」として発禁に処せられている。
また、时期を并行して、1912年夏に茅ヶ崎で5歳年下の画家志望の青年奥村博史と出会い、青鞜社自体を巻き込んだ騒动ののちに事実婚を始めている。らいてうはその颠末を『青鞜』の编集后记上で読者に报告し、同栖を始めた直后の1914年(大正3年)2月号では『独立するに就いて両亲に』という私信を『青鞜』志上で発表している。独立后、奥村との家庭生活[6]と『青鞜』での活动の両立が困难になり始めると、1915年(大正4年)1月号から伊藤野枝に『青鞜』の编集権を譲った。『青鞜』は従来の文芸雑志+αとは别の、强いて言えば「无政府主义者の论争志」として活気付いたが、その1年后には「日荫茶屋事件」があり、休刊することになった。
奥村との间には2児(长男、长女)をもうけたが、らいてうは従来の结婚制度や「家」制度をよしとせず、平冢家から分家して戸主となり、2人の子供を私生児として自らの戸籍に入れている[7]。
[编集] 母性保护论争
『青鞜』の编集権譲渡后は奥村の看病や子育てなどに追われていたが、1918年(大正7年)、妇人公论3月号で与谢野晶子が『女子の彻底した独立』(国家に母性の保护を要求するのは依頼主义にすぎない)という论文を発表すると、これに噛み付き、同志5月号で『母性保护の主张は依頼主义か』(恋爱の自由と母性の确立があってこそ女性の自由と独立が意味を持つ)という反论を発表した。すると、山川菊栄がこの论争に加わり、同志9月号で『与谢野、平冢2氏の论争』(真の母性保护は社会主义国でのみ可能)という论文を発表。その后、山田わかなどが论争に加わると一跃社会的な现象になった。(母性保护论争)
この论争の中、1919年(大正8年)の同志1月号で、らいてうは『现代家庭妇人の悩み』(家庭妇人にも労働の対価が払われてしかるべき、その権利はあるはず)を発表している。同年夏には爱知県の繊维工场を视察し、その际に女性労働者の现状に冲撃を受け、その帰途に新妇人协会设立の构想を固めている。
[编集] 新妇人协会
新妇人协会は、1919年(大正8年)11月24日に、市川房枝、奥むめおらの协力のもと、らいてうにより协会设立が発表され、「妇人参政権运动」と「母性の保护」を要求し、女性の政治的・社会的自由を确立させるための日本初の妇人运动団体として设立された。协会の机関纸「女性同盟」では再びらいてうが创刊の辞を执笔。新妇人协会は「衆议院议员选挙法の改正」、「治安警察法第5条の修正」、「花柳病患者に対する结婚制限并に离婚请求」の请愿书を提出。特に治安警察法第五条改正运动(女性の集会・结社の権利获得)に力を入れた。
しかし、1921年(大正10年)に过労に加え、市川房枝との対立もあり协会运営から退く。また、伊藤野枝、堺真柄、山川菊栄などの社会主义者は赤澜会を结成し、『新妇人协会と赤烂澜会』(『太阳』大正10年7月号)を皮切りに新妇人协会及びらいてうを攻撃する。らいてうが去り、市川も渡米した后、新妇人协会は坂本真琴と奥むめおらを中心に积极的な运动を継続し、1922年(大正11年)に治安警察法第5条2项の改正に成功。しかし、その后の活动は停滞し、翌1923年(大正12年)末に解散。らいてうは文笔生活に入った。
[编集] 消费组合
昭和になると消费组合运动等にも尽力、高群逸枝らの无政府系の雑志『妇人戦线』へ参加。
[编集] 戦中・戦后のらいてう
第二次世界大戦后は、日本共産党の同伴者として活动し[8]、妇人运动と共に反戦・平和运动を推进した。1950年(昭和26年)6月、来日した米国のダレス特使へ、全面讲和を求めた「日本女性の平和への要望书」を连名で提出。翌年12月には対日平和条约及び日米安全保障条约に反対して「再军备反対妇人委员会」を结成。1953年(昭和28年)4月には日本妇人団体连合会を结成し初代会长に就任。同年12月、国际民主妇人连盟副会长就任。1955年(昭和30年)、世界平和アピール七人委员会の结成に参加、同会の委员となる。1960年(昭和35年)、连名で「完全军缩支持、安保条约廃弃を诉える声明」発表。1962年(昭和37年)には、野上弥生子、いわさきちひろ、岸辉子らとともに「新日本妇人の会」を结成した。1970年(昭和45年)6月にも市川房枝らと共に安保廃弃のアピールを発表する。またベトナム戦争が勃発すると反戦运动を展开。1966年(昭和41年)「ベトナム话し合いの会」を结成、1970年(昭和45年)7月には「ベトナム母と子保健センター」を设立する。「女たちはみな一人ひとり天才である」と宣言する孤高の行动家として、终生妇人运动及び反戦・平和运动に献身した。
[编集] 最晩年
自伝の作に取り挂かるが、1970年(昭和45年)に胆嚢・胆道癌を患い、东京都千駄ヶ谷の代々木病院に入院。入院后も口述笔记で执笔を続けていたが、1971年(昭和46年)5月24日に85歳で死去。
[编集] エピソード
- 死语に近いが、相手の女性より年下の恋人をつばめと呼ぶのは、奥村がらいてうと别れることを决意した际の手纸の一节「静かな水鸟たちが仲良く游んでいるところへ一羽のツバメが飞んできて平和を乱してしまった。若いツバメは池の平和のために飞び去っていく」をらいてうが『青鞜』上で発表し、一种の流行语になったことに由来する。
- 1977年3月、孙娘の炎美可が日剧ミュージックホールにデビューして话题になった。
[编集] 着书
- 1913年 『〔トザシ〕ある窓にて』平冢らいてう着、东云堂
- 1914年 『现代と妇人の生活』平冢らいてう着、日月社
- 1917年 『现代の男女へ:らいてう第三文集』平冢らいてう着、南北社
- 1917年 『母性の复兴』エレン・ケイ着、らいてう訳、新潮社
- 1919年 『妇人と子供の権利』平冢明着、天佑社
- 1926年 『女性の言叶』平冢らいてう着、教文社
- 1933年 『云・草・人』平冢明着、小山书店
- 1937年 『子供の研究と教育丛书』第7、平冢明子着、刀江书院
- 1948年 『母子随笔』平冢らいてう着、桃李书院
- 1951年 『われら母なれば:平和を祈る母たちの手记』平冢らいてふ、栉田ふき共监修、青铜社
- 1955年 『わたくしの歩いた道』平冢らいてう着、新评论社
- 1971年 『元始、女性は太阳であった:平冢らいてう自伝』上・下、平冢雷鸟着、大月书店
- 1972年 『元始、女性は太阳であった:平冢らいてう自伝』続、平冢雷鸟着、大月书店
- 1973年 『元始、女性は太阳であった:平冢らいてう自伝』完、平冢雷鸟着、大月书店
- 1977年 『むしろ女人の性を礼拝せよ:平冢らいてう新性道徳论集』平冢らいてう着、人文书院
- 1983年6月~1984年6月 『平冢らいてう着作集1~7』、平冢らいてう着作集编集委员会编、大月书店
- 1983年11月 『平冢らいてう着作集 补』、平冢らいてう着作集编集委员会编、大月书店
- 1985年11月 『円窓より』平冢らいてう着、(『丛书『青鞜』の女たち』)、不二出版
- 东云堂书店大正2年刊の复制
- 1987年5月 『平冢らいてう评论集』小林登美枝、米田佐代子编、(『岩波文库』)、岩波书店
- 1992年3月 『元始、女性は太阳であった:平冢らいてう自伝』1、2、3、4、平冢らいてう着、(『国民文库』)、大月书店
- 1994年10月 『作家の自伝、8』平冢らいてう着、岩见照代编解説、(『シリーズ・人间図书馆』)、日本図书センター
- 1995年10月 平冢らいてう『妇人と子供の権利』 久山社
- 1996年1月 平冢らいてう『现代の男女へ』 大空社
- 2005年5月 平冢らいてうほか『金いろの自画像』 大月书店
[编集] 関连映画
- 羽田澄子『平冢らいてうの生涯 元始、女性は太阳であった』
- 平冢らいてうの记録映画をつくる会企画、自由工房制作、2001年(ドキュメンタリー映画)
[编集] 参考文献
- 1977年 小林登美枝『平冢らいてう:爱と反逆の青春』大月书店
- 1983年 小林登美枝『平冢らいてう』(『Century books』『人と思想』71)、清水书院
- 1987年 井手文子『平冢らいてう:近代と神秘』(『新潮选书』)、新潮社
- 1988年 堀场清子『青鞜の时代 平冢らいてうと新しい女たち』(『岩波新书』)、岩波书店
- 1994年 小林登美枝『阳のかがやき:平冢らいてう・その戦后』新日本出版社
- 1994年 佐々木英昭『「新しい女」の到来:平冢らいてうと漱石』名古屋大学出版会
- 1997年 中嶌邦・岩渊宏子・小林登美枝・青木生子『无限生成:らいてう・博史』「シリーズ・日本女子大学の卒业生(2)、平冢らいてうとその学友」展によせて、日本女子大学成瀬记念馆
- 2002年 米田佐代子『平冢らいてう:近代日本のデモクラシーとジェンダー』吉川弘文馆
- 2006年 折井美耶子・女性の歴史研究会(编)『新妇人协会の研究』ドメス出版
- 日本女子大学平冢らいてう研究会『らいてうを学ぶなかで』1,2 私学版
- 2008年 出版予定 「あたらしい女」研究会企画『「青鞜」と世界の「新しい女たち」』出版社未定
[编集] 注釈
- ^ 父の方针転换は鹿鸣馆时代终焉の时期と符合する。
- ^ 森田草平はこの事件を元に小説「煤烟」を书いた。そのため「煤烟事件」と呼ばれることもある。
- ^ 『青鞜』は18世纪イギリスの女性サロンブルー・ストッキングen:Blue Stockings Society (England)にちなんだ名前である。
- ^ 日本女子大学校时代に明とテニス部で一绪で、ダブルスを组んでいた。
- ^ 雷鸟は高山に栖む鸟で「孤独の鸟」「冬山の鸟」とも呼ばれていた。塩原事件の事を意识して付けた笔名だと言われている。
- ^ 奥村は病弱で、その直后に结核を発症している。
- ^ 1941年(昭和16年)に长男の兵役を前にして军队内で私生児として不利益を被らないようにという考えから奥村家の籍に入っている。
- ^ 1988年 堀场清子『青鞜の时代』岩波书店


