江の岛
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| 江の岛 | |
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ウオッちず Google Map 江の岛 |
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| 座标 | 北纬35度17分59.91秒 东経139度28分43.1秒 |
| 面积 | 0.38km² |
| 海岸线长 | 4km |
| 最高标高 | 60.4m |
| 所在海域 | 相模湾 |
| 所属国・地域 | 日本(神奈川県) |
江の岛(えのしま、 江ノ岛)は神奈川県藤沢市にある周囲4km标高60mほどの陆繋岛である。このあたりの丘陵地と同様に凝灰砂岩の上に関东ローム层が乗る地质である。古来は引き潮の时のみ洲鼻(すばな)という砂嘴(さし)が现れて対岸の湘南海岸と地続きとなって歩いて渡ることができた。関东地震で岛全体が隆起して以降は地続き倾向にある。対岸の片瀬川河口付近の形状が时代とともに変迁し、満潮のときのみ冠水した时期、常时陆続きとなった时期とあり、砂嘴の位置も移动している。湘南のシンボルでもある。神奈川県指定史迹・名胜、日本百景。
目次 |
[编集] 歴史
- 元々は陆続きであったが侵食、海进により岛となった。縄文时代の住居迹や石器が発见されている。
- 「江ノ岛縁起」(伝承)によれば、钦明天皇13年(552年)4月に海底より块砂を喷き出し、21日で岛ができたと伝えられている。
- 江の岛は天武天皇元年(672年)、役小角が开基したといわれる。以来、岛全域が圣域として扱われ、寿永元年(1182年)に源頼朝が弁才天を勧请し、鸟居を奉纳したのを始め、多くの要人が参拝したと言われる。
- 室町时代の宝徳2年(1450年)、関东管领上杉氏重臣长尾景仲による鎌仓公方足利成氏政権転覆の计画が明らかとなり、鎌仓を脱出して江の岛に逃れた成氏とこれを追迹してきた景仲の间で江の岛を巡って攻防戦が行われた(江ノ岛合戦)。
- 永正元年(1504年)には、北条早云が、江の岛に军势の乱妨狼藉を禁止する制札を出した。
- 天文18年(1549年)には、北条氏康が、上之宫および下之宫の修造に际し、白纟20斤を寄进した。
- 天文20年(1551年)には、北条纲成が、江の岛岩屋内における鸠の杀生を禁止した。
- 戦国时代は后北条氏によって庇护され、庆长5年(1600年)には徳川家康が、延宝2年(1674年)には徳川光圀も参拝した。
- 江戸时代には、手軽な観光地として江戸から多くの町民が访れにぎわった。特に弁才天は音曲をつかさどる神として知られたため、検校など盲人音楽家や歌舞伎役者なども数多く参拝した。
- また盲目であった杉山和一が管针术(针治疗の一种)に开眼した场所として知られ、盲人の信仰も厚かった。东海道藤沢宿から江の岛に至る「江の岛道」と呼ばれる道筋には、和一により寄进された道标が数基现存している。
- 明治10年(1877年)には、エドワード・S・モースが、江の岛に江ノ岛临海実験所を设営した。
- 江の岛の顶上部には植物园があった。これは与愿寺(よがんじ)の菜园だったのを明治2年(1869年)に来日した英国人贸易商のサムエル・コッキングが买い取って别邸の付属庭园として造営したものを起源としている。コッキングの庭园は関东大震灾で崩壊したが、その后整备され、现在は江の岛サムエル・コッキング苑として公开されている。
- 1889年、対岸の片瀬村と合并し、鎌仓郡川口村となる。1933年、町制を施行し、鎌仓郡片瀬町に。1947年、藤沢市に编入されて现在に至る。
- 1934年12月18日、「江ノ岛」の名称で、国指定の史迹および名胜となる[1]。
- 江の岛の奥には岩屋と称する洞窟があり、古く「富士や猿岛の风穴と繋がっている」という伝説があった。1948年3月7日に落石事故が発生し、崩落の危険があったため、数十年にわたり闭锁したが、调査・整备の后、现在は拝観可能となっている。
- 1964年の东京オリンピック时にはヨット会场になった。この指定を受けて岛の东部を大幅に埋め立て、湘南港を建设するために1960年6月10日、文化财専门委员会は「江ノ岛」の国指定名胜史迹指定删除を决め、同年6月29日に名胜および史迹の指定は删除された[2]。たが、同年10月14日に神奈川県が県指定史迹・名胜とした。湘南港建设のために1962年、神奈川県道305号江の岛线自动车専用桥「江の岛大桥」が开通し、「江の岛弁天桥」の通行料が无料となった。
- 2003年には、1951年に建てられた、江の岛灯台が建て替えられ、江の岛展望灯台として新たにオープンした。尚、この展望灯台の所有者は江ノ岛电鉄である。
[编集] 施设
[编集] 交通
- 1216年:干潮时に徒歩で江の岛に行けるようになる。
- 1897年:村営(当时は川口村)で、初めて桥が架けられる。往复3銭徴収。
- 1930年:桥が県営になる。往复2銭徴収。
- 1949年3月:桥桁がコンクリート制、上部が木制の桥に改筑し、一般公募により「江の岛弁天桥」と命名。往复大人5円、子供3円徴収。
- 1958年:鉄筋コンクリート制(全长389m、幅4m)の现在の江の岛弁天桥が架けられる。
- 1962年:自动车専用の江の岛大桥(神奈川県道305号江の岛线)が架けられ、江の岛弁天桥は人道桥となり、料金徴収を廃止する。
[编集] 鉄道
- 最寄り駅
- 利用目的によっては有用な駅。
- 江ノ岛电鉄江ノ岛駅(徒歩12分)
- 湘南モノレール江の岛线湘南江の岛駅(徒歩15分)
[编集] バス路线
江の岛大桥のたもとにバスターミナルがあり、ほとんどのバスがここで折り返すが、江ノ电バス1往复のみ、さらに岛内を湘南港まで运行する。
[编集] 道路
国道134号より、江の岛弁天桥(歩行者、自転车専用)と自动车専用道路神奈川県道305号江の岛线(江の岛大桥)がある。
[编集] 江の岛の地域猫
80年代顷から江の岛では舍て猫が急増し、现在では至る所で多数の野良猫を见かけるようになった。なお猫好きな観光客や钓り人がエサを与えるなどしたため、ほとんどの猫は人を恐れない。岛内の至る所で猫が无防备な姿でいるため、猫好きの人间もよく访れる。
一部でこれらの野良猫を観光资源ととらえて新たな江の岛名物とする动きがある。饵场をつくり猫に饵を与えたりする一方で、野良猫に避妊手术を行うための募金活动を行ったり、全岛に犬・猫を舍てないよう诉える看板を掲示するなど、これ以上野良猫が増えないような対策も并行的に进められている。いわば岛民一体になって野良猫の地域猫化を进めていると言えよう。
[编集] 地名表记
しばしば表记が揺れる「江ノ岛」と「江の岛」だが、1966年10月の藤沢市が行った住居表示の改订(この前后に行われた改订で藤沢市内の地名の送りがなは全てひらがなに统一された)により正式な地名としているのは「江の岛」である。これは时代によってその表记が「江乃岛」「江之岛」「江ノ岛」「江の岛」などと変わっていることにも起因している。 なお、江ノ岛电鉄や小田急江ノ岛线の駅名はそれぞれ「江ノ岛駅」「片瀬江ノ岛駅」であるが、湘南モノレールの駅名は「湘南江の岛駅」となっている。一方、神社名は江岛神社で「えのしまじんじゃ」と読ませる。また、「柄岛」「絵岛」という表记も见られた。
[编集] 文化
[编集] 音楽
- 『江ノ岛の曲』- 山田流筝曲、1777年(安永6年) 山田検校作曲。江戸で活跃した盲人音楽家、山田検校(1757年(宝暦7年)- 1814年(文化14年))の処女作品。この曲において浄瑠璃を取り入れた当时では新しいスタイルの筝曲を确立、山田流を创始した。初夏の江ノ岛の风景をうたい、贝の名を连ねた「贝づくし」や竜の口の伝説などを织り交ぜつつ弁财天の神徳を讃えた曲。
- 『春の江ノ岛』- 筝曲、1935年(昭和10年) 富崎春升(とみさき しゅんしょう) 作曲、笹川临风作词。江岛神社亥歳大祭に奉纳するため作曲された。江ノ岛、湘南ののどかな春景色と弁财天の神徳を咏っている。手事物形式で手事は二段あり互いに合奏できるほか、雅楽を模した「楽の手」が特徴的。作曲者により胡弓の手も付けられている。
- 『七里ヶ浜の哀歌』(真白き富士の岭(根)) 作词:三角锡子 作曲:ジェレマイア・インガルス。1910年(明治43年) 1月23日に起こった逗子开成中学のボート転覆事故の追悼大法会のために、系列校である鎌仓女学校 (现 鎌仓女学院) の数学教师だった三角锡子がインガルス曲の讃美歌に作词し、鎌仓女学校生徒らにより、镇魂歌としてこの歌が初演された。后にレコード化され、楽谱も出版されたため、演歌师らにより大流行し、多くの国民に「江の岛」の存在を印象づけることとなった。
- 『竜恋谱』(グランド・オペラ) 原作:渡辺俊 作:堂本正树 作曲:三枝成彰。1979年3月、藤沢市民オペラの第4回公演(藤沢市民会馆开馆10周年记念公演)で福永阳一郎指挥により初演された。市民创作オペラと铭打ち、「江嶋縁起」から题材を得て市民の渡辺俊が応募した作品を堂本正树・三枝成彰の手でグランド・オペラに仕上げたもの。
[编集] 関连项目
- 青砥稿花红彩画(白浪五人男)- 弁天小僧菊之助ゆかりの地。
- 江ノ岛丼
- 岩屋洞窟
- サザンオールスターズ
- NAGISA (映画)
- 神奈川県指定文化财一覧#史迹名胜
- 江ノ岛ベイビィラジオ
- タイヨウのうた
- 二子玉川园 - 旧江の岛灯台は、戦前は东急二子玉川园のパラシュート塔(戦时中は陆军が落下伞练习塔として利用)であったものが江ノ岛鎌仓観光(株)により移筑・転用されたものであった。

