江戸城
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江戸城 (东京都) |
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| 通称 | 千代田城、皇居(东京城、皇城、宫城) |
| 城郭构造 | 轮郭式平山城 |
| 天守构造 | 层塔型(非现存) |
| 筑城主 | 太田道灌 |
| 筑城年 | 1457年(长禄元年) |
| 主な改修者 | 徳川家康、秀忠、家光(江戸期) 宫内省・宫内庁(明治以降) |
| 主な城主 | 太田氏、后北条氏(戦国期) 徳川将军家(江戸期) 天皇家(明治以降) |
| 遗构 | 现存橹・门、石垣・土塁・堀 |
| 指定文化财 | 国の重要文化财(桜田门、田安门 清水门) |
| 再建造物 | 富士见橹、伏见橹・多闻橹 桜田巽橹、和田仓门 |
| 位置 | 北纬35度41分17.97秒 东経139度45分15.72秒 |
江戸城(えどじょう)は、武蔵国豊嶋郡江戸(现在の东京都千代田区千代田)にある城。千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。现在は皇居となっており、中心(本丸・二の丸・三の丸)部は、皇居东御苑として开放されている。
目次 |
[编集] 概要
徳川15代の征夷大将军の居城であり、江戸幕府の最高政庁であった。明治维新期、皇室が京都御所から江戸城に転居し、それ以降宫城・皇居となった。以后は吹上庭园が御所、江戸城西の丸が宫殿の敷地となっている。通常、皇居部分(西の丸と吹上庭园)に立ち入ることは出来ないが、その东侧にある旧江戸城の中心部である本丸・二の丸と三の丸は皇居东御苑として开放されている。南侧の皇居外苑と北侧の北の丸公园は常时开放され、それらの外侧は一般に利用できる土地になっている。
[编集] 歴史・沿革
[编集] 天正・庆长まで
江戸(东京)の地に最初に根拠地を置いた武家は江戸重継で、平安时代末期から鎌仓时代初期にかけて、后の江戸本丸・二の丸辺りの台地上に居馆を置いていたとされる。江戸氏が15世纪の関东の騒乱で没落すると、1457年(长禄元年)に扇谷上杉氏の家臣である太田道灌が江戸氏の居馆迹に江戸城を筑城した。道灌の死后、江戸城は上杉氏の所有するところとなり、ついで后北条氏の支配下に入る。江戸城の南には品川凑があり、更にその南には六浦(金沢)を経て鎌仓に至る水陆交通路があったとされていることから、関东内陆部から利根川・荒川を経て品川・鎌仓(更に外洋)に向かうための交通路の掌握のために重要な役割を果たしたと考えられている。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めの际に开城。秀吉に后北条氏旧领の関东六州(武蔵・相模・伊豆・上野・下総・上総)を与えられて、骏府(静冈)から転居した権大纳言である徳川家康が、同年8月1日(1590年8月30日)に公式に入城し、居城とした。このため旧暦の8月1日(八朔)は、江戸时代を通じて祝われることになる。
[编集] 江戸时代
徳川家康が入城した当初は、质素な城だった。太田道灌筑城时のままの姿を残した比较的小规模な城であったため、徳川家は开幕までにそれまでの本丸(元は二つの郭であったが入城后、间の堀を埋めて一つの郭にする)・二の丸に加え、西の丸・三の丸・吹上・北の丸を増筑。また道三掘や平川の江戸前岛中央部への移设、それに伴う残土により、现在の西の丸下の半分以上の埋め立てを行い、同时に街造りも行っている。
- 1603年(庆长8年) 徳川家康が江戸开府して以降は天下普请による江戸城の拡张に着手。本丸・二の丸・三の丸(现在の皇居东御苑)に加え、西の丸(皇居)、西の丸下(皇居外苑)、吹上(皇居吹上御苑)、北の丸(北の丸公园)の周囲16kmにおよぶ区画を本城とし、现在の千代田区と港区・新宿区の境に一部が残る外堀と、骏河台を掘削して造った神田川とを総构えとする大城郭に発展した。工事には日本全国の大名が动员された。完成を见た时期は、家康の孙・徳川家光の代の1636年(寛永13年)である。以后、200年以上に渡り江戸幕府の中枢として机能した。
- 1657年(明暦3年) 明暦の大火により五层の天守阁を含めた城构の多くを焼失。町の复兴や経済的な理由を优先し、现在まで天守阁は二度と再建されていない。
[编集] 近现代
- 1868年(明治元年)4月、江戸城は明治新政府军に明け渡され、10月に东京城(とうけいじょう)に改名された。
- 1869年(明治2年) 东京迁都により皇城となる。
- 1873年(明治6年) 皇居に使用中の西の丸御殿が焼失。
- 1888年(明治21年) 明治宫殿の完成によって宫城(きゅうじょう)と称される。
- 1948年(昭和23年) 皇居と改称された。
- 1923年(大正12年) 関东大震灾で残っていた建造物は大きな被害を受け、和田仓门は复旧されなかった。残っていた门は、上の橹部分を解体して改修された。
- 1945年(昭和20年) 空袭で大手门が焼失したが、1967年(昭和42年)に复元された。
- 1964年(昭和39年) 北の丸の清水门・田安门の上部が复元された。
- 1968年(昭和43年) 二の丸迹を小堀远州の回游式庭园に复元し、诹访の茶屋を吹上御苑より移筑した。现在、桜田门、田安门、清水门(以上は、日本の重要文化财に指定されている)が遗构として现存している。
- また、関东大震灾で倒壊后、最初は内部はコンクリート造り、后に木造で复元された富士见橹、伏见橹・多闻橹、桜田巽橹や、同心番所、百人番所、大番所なども、宫内庁管理のため重要文化财などには指定されていないが现存する。
[编集] 构造
本丸と西の丸が独立している、一城别郭の形式である。间に日枝神社が祭られていた红叶山があり、开幕前には庶民が间を抜けて参拝することができたが、后の拡张で城域に取り込まれたために移転している。
[编集] 天守
太田道灌筑城以降の象徴的建物は、静胜轩という多重の御殿建筑(3重とも)で、江戸时代に佐仓城へ铜橹として移筑されたが、明治维新后に解体された。
徳川家康の改筑以降、本丸の天守は庆长度(1607年)・元和度(1623年)・寛永度(1638年)と三度筑かれている。庆长度には本丸の中心付近に建てられたが、元和期に现在の位置に変えられたと考えられている。庆长度の天守は秀忠によって解体され新たに造り直されている。造り直しの动机は御殿の拡张が必要となった结果で、この初代天守は仙台城(计画のみ)や大坂城に移筑させたと言われている。その元和度の天守も秀忠の死后に家光によって解体され造り直されている。これの动机も秀忠・家光の亲子関系に起因する説や、高层建筑による漆喰の早期剥离に対する是正工事といった説があるが、详しい所は不明である。
寛永度の天守は5层6阶の独立式层塔型で铜板张りの壁に铜瓦葺という姿であったが、1657年(明暦3年)の明暦の大火で焼失している。幸い、详しい図面も残されているため唯一ほぼ正确な姿が判っている。焼失后、ただちに再建が计画され、现在も残る天守台が前田纲纪によって筑かれた。计画図も作成されたが、「天守は织田信长が岐阜城に筑いたのが始まりであって、城の守りには必要ではない」と言う意见と保科正之の江戸复兴优先の方针により中止され、现在まで天守は再建されないまま、迹地は石垣だけとなっている。その后、本丸の富士见橹を実质の天守としていた。 また、これ以降诸藩では再建も含め天守の建造を控えるようになり、事実上の天守であっても「御三阶」と称するなど远虑の姿势を示す倾向が见られる。
[编集] 西の丸
『闻书集』、『霊岩夜话』、『参考落穂集』などによれば、天正年间に徳川家康が入城した顷は、この地は丘原であり、田圃があり、春になればモモ、サクラ、ツツジなどが咲き、游覧の地であったという。
1592年(文禄元年)から翌1593年(文禄2年)にかけて、西の丸は创建された。创建された当时は、新城、新丸、御隠居城、御隠居曲轮などといった。代々将军は、ここを世継ぎの住居とし、また禅譲后の住居としても使った。
东に大手门、门をはいって西北にいくと中仕切门があり、この门は的场郭といった。西端の吹上苑にいく门が吹上门である。中仕切门から北にむかって现在は二重桥とも呼ばれている下乗桥がある。これを通り、西隅にある二重橹が伏见橹である。下乗桥门を通り、北に玄関がある。殿中は、表、中奥、大奥としきられ、おもな部屋をあげれば、远待、殿上间、虎间、大広间、大廊下、溜间、白木书院、帝鉴の间、连歌歌间、山吹间、菊间、雁间、竹间、芙蓉间、中间、桔梗间、焼火间、踯躅间、柳间、梅竹间、桧间、苏鉄间などである。
西には山里丸があり、庆长年间に、将军徳川家光が小堀政一へ命じて园池茶室を造らせ、新山里と呼んだ。その西に山里马场があり、后门が坂下门である。かつては通行が许され、この门を通り红叶山下をへて半蔵门に至ったという。
西の丸の御殿や橹などは1634年(寛永11年)、1852年(嘉永5年)、1863年(文久3年)の三度にわたって焼失した。1868年(明治元年)4月、朝廷に明け渡された当时の殿舎は4度目の建筑であったが、1873年(明治6年)5月5日に焼失した。
西の丸は、西丸小姓组が守った。
[编集] 大手门
三の丸の中央部にあり大手前を繋いだ。三の丸が屋敷地であった顷は二の丸の大手下乗门が大手门であり、现在の大手桥は大桥と呼ばれていた。江戸时代、勅使の参向、将军の出入り、诸侯の登城などこの门から行うのが正式であった。したがってここの警备は厳重をきわめ、10万石以上の谱代诸侯がその守卫に勤仕し、番侍10人(うち番头1人、物头1人)がつねに肩衣を着て、平士は羽织袴でひかえ、鉄炮20挺、弓10张、长柄20筋、持筒2挺、持弓2组をそなえ警戒にあたった。
明暦の大火后も、江戸城は度々火灾を被った。本丸は1863年(文久3年)の火灾で焼失したまま再建されず、西の丸に机能を移したまま明治维新を迎えている。
[编集] 他の遗构
- 川越の喜多院と氷川神社には、3代将军家光诞生の间とされる江戸城の江戸期移筑建物が残る。移筑建物と川越城御殿の二つの御殿が见られる。
- 近年、都市再开発の动きに伴い、丸の内や霞が関の文部科学省で外堀の石垣が地中より発掘された。
- 明治初年に莲池御门を名古屋城正门として移筑したが、惜しくも戦灾で焼失してしまっている。后に复元。
[编集] 史迹指定
[编集] 遗构・遗迹の撤消
- 江戸城障壁画下絵(狩野晴川院笔、东京国立博物馆蔵)は、弘化度本丸御殿再建の际に描かれた障壁画の下絵集であり、御殿平面図と并せることで幕末期の御殿の内装を知ることを可能にした。これにより有名な松の廊下の再现も可能となった。
- 现在NPO法人によって江戸城天守阁再建活动がなされている。
[编集] 现地情报
[编集] 所在地
- 东京都千代田区千代田
[编集] 交通アクセス
- JR「东京」駅および地下鉄千代田线「大手町」駅から徒歩5分
[编集] 関连项目
[编集] 外部リンク
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