江戸时代

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日本の歴史

日光东照宫

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江戸时代(えどじだい、1603年(庆长8年)~1867年(庆応3年)、徳川时代とも)とは、江戸幕府によって日本が统治されていた时代を指す日本の歴史の时代区分の一つ。

庆长8年2月12日1603年3月24日)に徳川家康征夷大将军に任ぜられ江戸(现在の东京)に幕府が开かれた时を始まりとし、庆応3年10月14日1867年11月15日)に大政奉还するまでの264年间を指す。

ただし、関ヶ原の戦いにおいて徳川家康が胜利した1600年(庆长5年)を始期、江戸幕府の本拠地である江戸城官军(朝廷)に明け渡された1868年(庆応4年/明治元年)を终期とする见方も存在する。なお、徳川时代や、藩政时代の别称もある。ただし后者は、専らこの时代に特定の藩の藩领だった地域の郷土史における歴史区分として使われる。

目次

[编集] 概要

[编集] 江戸时代初期

徳川 家康

徳川家康征夷大将军に就くと自领である江戸の地に幕府を开き、ここに徳川幕府(江戸幕府)が诞生する。豊臣政権崩壊后の政局の混乱を収め、産业・教育の振兴その他の施策に力を入れるとともに、大坂の役により豊臣氏势力を一扫。长く続いた政局不安は终わった。

徳川幕府は彻底的な政局安定策をとり、武家诸法度の制定や禁中并公家诸法度など诸大名や朝廷に対し、彻底した法治体制を敷いた。大名の多くが「所领没収」で姿を消し、全国の要所は直辖领(天领)として大名を置かず、多数の亲藩大名に大领を持たせ、その合间に外様大名を配置し、谱代大名には小领と中央政治に関与する権利を与えるという絶妙の分割统治策を実施した。

皇居(旧・江戸城)富士见橹、1659年(万治2年)筑造。

「自家优先主义」との批判もあるが、これにより结果的には260年以上続く长期安定政権の基盘を确立し、「天下泰平」という日本语が生まれるほどの相対的平和状态を日本にもたらした。

また、农本主义的に思われている家康だが、実际には织田信长豊臣秀吉と同时代の人间であり、また信长の彻底的な规制缓和による経済振兴策をその目で见てきていることからも、成长重视の経済振兴派であった可能性が指摘されている。平和が招来されたことにより、大量の兵士(武士)が非生産的な军事活动から行政的活动に転じ、広域的な新田开発が各地で行われたため、戦国时代から安土・桃山时代へと长い成长を続けていた経済は爆発的に発展し、高度成长时代が始まった。

また江戸时代には、対外的には长崎出岛での中国オランダとの交流と対马藩を介しての李氏朝鲜との交流以外は外国との交流を禁止する锁国政策を采った(ただし、実际には萨摩に支配された琉球による対交易や渡岛半岛の松前氏による北方交易が存在した)。バテレン追放令は、既に豊臣秀吉が発令していたが、锁国の直接的契机となったのは岛原・天草一揆で、キリスト教一揆(中世の国人一揆と近世の百姓一揆の中间的な性格を持つもの)が结び付いたことにより、その镇圧が困难であったため、キリスト教の危険性が强く认识されたためであると言われる。またこの间、オランダが日本贸易を独占するため、スペインなどの旧教国に日本植民地化の意図があり、危険であると幕府に助言したことも影响している。中国では同様の政策を海禁政策と呼ぶが、中国の场合は主として沿海地域の倭寇をも含む海贼からの防卫及び海上での密贸易を禁止することが目的とされており、日本の锁国と事情が异なる面もあった。しかし、日本の锁国も中国の海禁と同じとして锁国より海禁とする方が适当とする见解もある。 锁国政策が実施される以前には、日本人の海外进出は着しく、东南アジアに多くの日本町が形成された。またタイに渡った山田长政のようにその国で重用される例も见られた。

しかし锁国后は、もっぱら国内重视の政策が采られ、基本的に国内自给経済が形成された。そのため三都を中轴とする全国経済と各地の城下町を中心とする経済との复合的な経済システムが形成され、各地の特産物が主に大坂に集中し、そこから全国に拡散した。农业生産力の発展を基盘として、経済的な繁栄が见られたのが元禄时代であり、この时代には文学や絵画の面でも、井原西鹤浮世草子松尾芭蕉俳谐近松门左卫门浄瑠璃菱川师宣浮世絵などが诞生していく。

[编集] 江戸时代中期

ゑちご屋チラシ

元禄时代の経済の急成长により、货币経済が农村にも浸透し、四木(・茶・)・三草(红花または木绵)など商品作物の栽培が进み、渔业では上方渔法が全国に広まり、瀬戸内海の沿岸では入浜式塩田が拓かれての量産体制が整い各地に流通した。手工业では绵织物が発达し、伝统的な绢织物では高级品の西阵织が作られ、また、滩五郷伊丹酒造业有田瀬戸窑业も発展した。やがて、18世纪には农村工业として问屋制家内工业が各地に勃兴した。

人と物の流れが活発になる中で、城下町港町宿场町门前町鸟居前町鉱山町など、さまざまな性格の都市が各地に生まれた。その意味で江戸时代の日本は「都市の时代」であったという评価[1]がある。18世纪の初めころの京都と大坂はともに40万近い人口をかかえていた。同期の江戸は、人口100万人前后に达しており、日本最大の消费都市であるばかりでなく、世界最大の都市でもあった。当时の江戸と大坂を结ぶ东海道が、18世纪には世界で一番人通りの激しい道だったといわれている[2]

このような経済の発展は、院内银山などの鉱山开発が进んで金・银・铜が大量に生産され、それと引き替えに海外の物资が大量に日本に入り込んだためでもあったが、18世纪に入ると减産、枯渇の倾向がみられるようになった。それに対応したのが新井白石海舶互市新例(长崎新令)であった。彼は、幕府开设から元禄までの间、长崎贸易の决済のために、金货国内通货量のうちの4分の1、银货は4分の3が失われたとし、长崎奉行大冈清相からの意见书を参考にして、この法令を出した。その骨子は输入规制と商品の国産化推进であり、长崎に入る异国船の数と贸易额に制限を加えるものであった。清国船は年间30艘、交易额は银6000贯にまで、オランダ船は年间2只、贸易额は3000贯に制限され、従来は输入品であった绵布、生纟砂糖鹿皮、绢织物などの国産化を奨励した。

徳川吉宗

8代将军となった徳川吉宗は、纪州徳川家の出身であり、それまで幕政を主导してきた谱代大名に対して远虑することなく、大胆に政治改革をおこなった(享保の改革)。吉宗が最も心をくだいたのは米価の安定であった。货币経済の进展にともない、诸物価の基准であった米価は下落を続け(米価安の诸色高)、それを俸禄の単位としていた旗本・御家人の困穷が顕着なものとなったからである。そのため彼は倹约令で消费を抑える一方、新田开発による米の増産、定免法采用による収入の安定、上米令堂岛米会所の公认などをおこなった。「米将军」と称されたゆえんである。それ以外にも、财政支出を抑えながら有为な人材を登用する足高制、汉訳洋书禁输の缓和や甘藷栽培の奨励、目安箱の设置その他の改革をおこなった。幕府财政は一部で健全化し、1744年(延享元年)には江戸时代を通じて最高の税収となったが、年贡税率の固定化やゆきすぎた倹约により百姓・町民からの不満を招き、折からの享保の大饥馑もあって、百姓一揆打ちこわしが频発した。このように、土地资本を基盘とする反面、土地所有者ではない支配者层という独自な立场に立たされた武士の生活の安定と、安定成长政策とは必ずしも上手く融合できずに、金融引き缔め的な経済圧迫政策がを打ち出されて不况が慢性化した。

なお、「朱子学は忆测にもとづく虚妄の説にすぎない」と朱子学批判をおこなった荻生徂徕1726年(享保11年)顷に吉宗に提出した政治改革论『政谈』には、徂徕の政治思想が具体的に示されており、これは日本思想史のなかで政治と宗教道徳の分离を推し进める画期的な着作でもあり、こののち経世论が本格化する。いっぽう、1724年(享保9年)には大坂の豪商が朱子学を中心に儒学を学ぶ懐徳堂を设立して、后に幕府官许の学问所として明治初年までつづいている。1730年(享保15年)、石田梅岩は日本独自の道徳哲学心学(石门心学)を唱えた。享保年间は、このように、学问・思想の上でも新しい展开のみられた时代でもあった。


幕府财政は、享保の改革での年贡増徴策によって年贡収入は増加したが、宝暦年间(1751年 - 1763年)には头打ちとなり、再び行き诘まりをみせた。これを打开するため、発展してきた商品生産・流通に新たな财源を见出し、さらに大规模な新田开発虾夷地开発を试みたのが田沼意次であった。

田沼は、それまでの农业依存体质を改め、重商主义政策を実行に移した。商品生産・流通を掌握し、物価を引き下げるため手工业者の仲间组织を株仲间として公认、奨励して、そこに运上冥加などを课税した。铜座・朝鲜人参座・真鍮座などのを设け、専売制を実施した。町人资本による印旛沼手贺沼の干拓事业、さらに长崎贸易を推奨し、特に俵物など输出商品の开発を通じて金银の流出を抑えようとした。また、兰学を奨励し、工藤平助らの提案によって最上徳内を虾夷地に派遣し、新田开発や鉱山开発さらにアイヌを通じた対ロシア交易の可能性を调査させた。

これらは、当时としてはきわめて先进的な内容をふくむ现実的、合理的な政策であったが、贿赂政治を批判され、天明の大饥馑とも重なって百姓一揆打ちこわしが激発して失脚した。18世纪は北半球が寒冷化した小氷期の时代でもあったため、これが饥馑に拍车をかけたのである。

松平定信

続いて田沼政治を批判した松平定信1787年(天明7年)に登场し、寛政の改革を推进した。田沼时代のインフレを収めるため、质素倹约と风纪取り缔まりを进め、超紧缩财政で临んだ。抑商政策が采られて株仲间は解散を命じられ、大名に囲米を义务づけて、旧里帰农令によって江戸へ流入した百姓を出身地に帰还させた。また弃捐令を発して旗本御家人らの救済を図るなど、保守的、理想主义的な倾向が强かった。

対外対策では、林子平の虾夷地対策を発禁処分として処罚し、漂流者大黒屋光太夫を送り届けたロシアのアダム・ラクスマンの通商要求を完全に拒絶するなど、强硬な姿势で临んだ。七分积金人足寄场の设置など、今日でいう社会福祉政策を行ってもいるが、思想や文芸を统制し、全体として町人百姓に厳しく、旗本・御家人を过剰に保护する政策を采り、民衆の离反を招いた。また、重商主义政策の放弃により、田沼时代に健全化した财政は再び悪化に転じた。

その一方で、超长期の政権安定、特に前半の百数十年は成长経済基调のもと、町人层が発展し、学问・文化・芸术・経済等様々な分野の活动が活発化し、现代にまで続く伝统を确立している。

[编集] 江戸时代后期

徳川家斉

発展する経済活动と土地资本体制の行政官である武士を过剰に抱える各政府(各藩)との构造的な轧轹を内包しつつも「泰平の世」を讴歌していた江戸时代も19世纪を迎えると急速に制度疲労による硬直化が目立ち始める。

加えて18世纪后半の近代産业革命とその果実を得た西洋诸国は急速に「近代化」し、それぞれの政治経済的事情から前时代の「冒険」ではなく、みずからの産业のために资源と市场を求めて世界各地に「进出」をはじめた。远い极东の地に彼らが到达するに従い、当然日本近海にも西洋船が出没する回数が多くなっていったが幕府はこれら外国船や日本との外交ルートを模索する使节の接触に対し、1825年(文政8年)には外国船打払令として知られる拒絶政策により「锁国政策」を再确认しており、在野の世论もこれに同意していた。

大塩平八郎终焉の地

松平定信の辞任后、文化文政时代から天保年间にかけての约50年间、政治の実権は11代将军徳川家斉が握った。家斉は将军职を子の家庆にゆずった后も実権を握り続けたので、この政治を「大御所政治」と呼んでいる。家斉の治世は、はじめ质素倹约の政策が引き継がれたが、货币悪鋳による出目の収益で幕府财政が一旦润うと、大奥での华美な生活に流れ、幕政は放漫経営に陥った。上述の外国船打払令も家斉时代に発布されたものである。一方では、商人の経済活动が活発化し、都市を中心に庶民文化(化政文化)が栄えた。しかし、农村では贫富の差が拡大して各地で百姓一揆や村方騒动が频発し、治安も悪化した。1805年(文化2年)には関东取缔出役が置かれている。

水野忠邦

1832年(天保3年)から始まった天保の大饥馑は全国に広がり、都市でも农村でも困穷した人々があふれ、饿死者も多く现れた。1837年(天保8年)、幕府の无策に愤って大坂町奉行所の元与力大塩平八郎が大坂で武装蜂起した。大塩に従った农民も多く、地方にも飞び火して幕府や诸藩に大きな冲撃を与えた。このような危机に対応すべく、家斉死后の1841年(天保12年)、老中水野忠邦が幕府権力の强化のために天保の改革と呼ばれる财政立て直しのための诸政策を実施したが、いずれも効果は薄く、特に上知令は幕府财政の安定と国防の充実との両方を狙う意欲的な政策であったが、社会各层からの猛反対を浴びて顿挫し、忠邦もわずか3年で失脚した。

『海国図志』

忠邦はまた、アヘン戦争における清の败北により、従来の外国船に対する异国船打払令を改めて薪水给与令を発令して柔软路线に転换するいっぽう、江川英龙高岛秋帆に西洋流炮术を导入させて、近代军备を整えさせた。アヘン戦争の冲撃は、日本各地をかけめぐり、魏源の『海国図志』は多数印刷されて幕末の政局に强い影响をあたえた[3]

こうした中、萨摩藩长州藩など雄藩と呼ばれる藩では财政改革に成功し、幕末期の政局で强い発言力をもつ力を蓄えた。

経済面では、地主や问屋商人のなかには工场を设けて分业や协业によって手工业生産をおこなうマニュファクチュアが天保期には现れている。マニュファクチュア生産は、大坂周辺や尾张の绵织物业、桐生足利结城など北関东地方の绢织物业などでおこなわれた。

[编集] 江戸时代末期

详细は幕末を参照

マシュー・ペリー

1853年(嘉永6年)、长崎の出岛への折冲のみを前提としてきた幕府のこれまでの方针に反して、江戸湾の目と鼻の先である浦贺に强行上陆したアメリカ合衆国マシュー・ペリーとやむなく交渉した幕府は、翌年の来航时には江戸湾への强行突入の构えをみせたペリー舰队の威力に屈し日米和亲条约を缔结、その后米国の例にならって高圧的に接触してきた西欧诸国ともなし崩し的に同様の条约を缔结、事実上「开国」してしまった。

下级武士や知识人阶级を中心に、「锁国は日本开辟以来の祖法」であるという説に反したとされた、その外交政策に猛烈に反発する世论が沸き起こり、「攘夷」运动として朝野を圧した。世论が沸き起こること自体、幕藩体制が坚牢なころには起こり得ないことであったが、この「世论」の精神的支柱として、京都天皇=帝(みかど)の存在がクローズアップされる。 このため永い间、幕府の方针もあり、政治的には静かな都として过ごしてきた京都がにわかに騒然となっていき、有名な「幕末の騒乱」が巻き起こる。

井伊直弼

一时は大老井伊直弼の强行弾圧路线(安政の大狱)もあり不満「世论」も沉静化するかに思われたが、桜田门外の変后、将军后継问题で幕府がゆれる间に事态は急速に変化する。

萨摩藩では、岛津斉彬が死んだ后、后を継いだ藩主岛津忠义の父である岛津久光长州藩を牵制すべく公武合体运动を展开し、藩内の攘夷派を粛清(寺田屋事件)し、幕府に改革を要求した(文久の改革)。岛津久光は江戸から萨摩への帰路、生麦事件を引き起こし、翌年萨英戦争で攘夷の无谋さを悟ることになる。

藩内改革派と保守派が藩政の主导権を争っていた长州藩では、1863年(文久3年)5月、马関海峡を航行中の外国船を自藩制の大炮で攻撃して「攘夷」を决行した。また、京都における主导権争いから萨摩藩らと冲突、1863年(文久3年)8月、三条実美らの七卿落ち、翌1864年(元治元年)の池田屋事件を契机に萨摩藩・会津藩桑名藩と武力冲突した(禁门の変)。

禁门の変を理由に幕府は、第一次长州征伐を决行、同时期に、英米仏兰4ヶ国舰队の反撃に遭い、上陆され炮台を占拠された(四国舰队下関炮撃事件)。その后、高杉晋作木戸孝允らが藩政を掌握した。

このような情势下、萨摩、长州ら政争を缲り返していた西国雄藩は坂本龙马中冈慎太郎の周旋により、同盟を缔结(萨长同盟)した。その后、幕府は第二次长州征伐を决行するが、高杉晋作の组织した奇兵队などの庶民军の活跃に阻まれ、また、総指挥者である将军徳川家茂が大坂城で病没するなどもあり、失败した。

徳川庆喜

折から幕法に反して京都に藩邸を置く诸大名を制御できず、京都の治安维持さえ独力でおぼつかない幕府と、幕藩体制の根干である「武士」の武力に対する信頼とその権威は、この败北によって急速になくなっていった。萨长は、土佐藩肥前藩をも巻き込み、开国以来の违勅条约に対する反対论と外国人排撃を主张、実行に移そうとする「攘夷」を、国学の进展などにより江戸时代后期から広がっていた国家元首问题としての尊王论とを结びつけ、「尊皇攘夷」を旗头に「倒幕」の世论を形成していった。

しかし、1867年。15代将军徳川庆喜は起死回生の策として大政奉还を実行し、徳川の政治的生き残りを図る。これは朝廷に対し恭顺の意を表し、新しく成立するであろう新政府において重要な地位に立って、大名连合政権の上に立とうとする考えであった。武力によって完全に幕府を倒そうとしていた倒幕势力は攻撃の名目を一时的に失ったため、先手を取られた形となった。しかし、萨长の倒幕派が太政官制度を复活させ、天皇を中心とした新政府を树立。徳川から朝廷への政権交代を宣言した(王政复古の大号令)。その后、徳川を盟主とする旧幕府势力と萨长を主体とする新政府が対立し、鸟羽・伏见の戦いを机に戊辰戦争が勃発。新政府に败れ去った庆喜は、江戸城无血开城を経て降伏した。降伏后も一部の旧幕府势力が东北などで抵抗したが、五棱郭箱馆戦争を最后に新政府が胜利し、戊辰戦争は终结した。こうして明治维新が始まり、日本も本格的に近代化の时代を向かえることになる。

[编集] 主な出来事

[编集] 政治・社会

[编集] 中央政治

江戸时代は征夷大将军徳川氏を中心として、武士阶级が支配していた封建社会であった。一般市民の身分制度は士农工商と呼ばれる阶级制であり、武士が民衆を支配していた。それまで武士と农民は分离していなかったが、豊臣秀吉刀狩りと武士は城下町人は町屋・农民は村落と住居が固定されるなどにより武士阶级と农民が明确に分离された。しかし江戸时代の各阶层にある程度の流动性も见られる。特に江戸には饥馑などにより地方から流入してきた农民も多く、幕府はしばしば帰农令を出している。また、全国の诸藩には、郷士と呼ばれる自活する武士も存在した。かれらは城下に住み藩主から俸禄を贳っていた武士である藩士とは明确に区别され、また一段下の身分として差别されることもあった。幕末に活跃した人びとには、勤皇方、幕府方を问わず、下级藩士郷士町人など軽辈阶层出身者であった者が多い。
幕府は江戸、大阪京都町奉行所司代を置き重要视したが、その他伊豆日田长崎新舄飞騨重要鉱山代官を配置し支配した。これらの支配力は単に一都市に限らず、京都所司代山城丹波近江など、大阪町奉行西日本诸国の天领采配がそれぞれ许されるなど、管辖地の诸大名を监察する役目もあった(京都所司代朝廷も监视していた)。但し、彼らの用いる兵力は殆どなく、18世纪初头の长崎奉行は10数人、幕末の五条代官所でも30人しかいなかった。
幕府は権力と経済を分散させている。老中などの権力を持つ谱代大名は殆ど10万石规模の石高だが、経済の豊富な外様や国持大名には幕府政治に介在を许さなかった。これにより室町幕府の细川氏のような権力者を生み出さないようにしている。17世纪后半以降にはその老中职なども大老职など例外を除いてほぼ复数制(月番制)となっている。

[编集] 地方政治

江戸幕府より统治の许可を得た诸大名が原则的には一代に限り土地统治を认められた封建体制である。领土の支配体制は各大名の规模によってかなり异なるが、ほぼ幕府の支配机构体制に准ずる形をとった。身分制についても同じである。ただ、大名は支配土地を自由自在に支配できたわけではなく、幕府からは大目付が発する监察使にその行政を监视规制されていた。このため武家诸法度违反で相当数の大名が改易・减封処分を受けたが、この処罚は亲藩・谱代・外様の别なく行われた。
大名には幕府によりその格式に定められた参勤交代と御手伝いの义务が课せられた。これが大名贫困化の大きな原因となった。これを打开するために藩政改革が18~19世纪にかけて各藩で実施される(早いところでは土佐藩が17世纪中叶に行った)。初期は倹约と藩札発布が主であったが、18世纪中盘になると塩・陶器などの土地産物の専売制がかなりの藩で実施される。変わったところでは纪州藩の「熊野三山寄付贷付」があり、大名みずからが金融业者になり利子を取るということまでしている。また、仙台藩が大坂の升屋の番头である山片蟠桃に藩财政を総覧させたように财政を商人に任せるような藩も出てきた。
一部の国持大名の藩を除いて、藩の领地は中心城と城下町周辺と、その他は少し离れた飞び地を持っていた(相给)。この倾向は特に10万石前后の谱代大名に多く见られる。京都付近の淀藩は山城など近畿のほか远く上総まで所领を持っていたが、これは稲叶家が上総から淀に移封する际に付いてきた物と考えられる。こういう例は意外と多い。
幕府の各大名の支配方法として、参勤交代と御手伝いの义务のほか、将军の娘をもらったり息子を养嗣子としたり、お金を贷し与えたりした。また、大名と大名の间を婚姻関系や养子関系で结んだりしている。
なお、一部の例外を除いて、各藩は藩士への知行体制を18世纪初旬までに地方知行制(现地领主制)から俸禄制(サラリー制)へと変迁させている。
江戸时代初期、各藩は隣接する藩との间で境界争いが盛んとなった。有名な所では久保田藩と盛冈藩が干戈を交えるところまで発展した鹿角领争いであるが、これ以外にも仙台藩と相马藩、萩藩と徳山藩などがある。これらは中期ごろまでに大体解决し、このとき决定した境界は现在にも引き継がれている。

[编集] 地方

この时代は农本主义のため、幕府・大名の拠点のある城を中心とした町(城下町)の他は基本的に农村と考えられていた。このため港の利益や鉱山の鉱物なども米に换算していた。大名たちは上纳金を贡いでくれる城下町が栄えることは、みずからの発展と同义と考え保护政策をおこなった。
しかし、江戸时代中期に入り港町や宿场町などの発展、换金性の高い绵が栽培され始めるなど农村部に资本主义が流入され、また(これが最も大きいのだろうが)大名への献金が过重になり过ぎて商家の一部がつぶれるなど、城下町の衰退が目立つようになった。この农民の商売热を冷まそうと幕府は田畑永代売买禁止令帰农令などを発布するも効果がなかった。
农村では名主庄屋が幕府・大名と农村の桥渡しとして存在し、原则的に武士は农村にいなかったとされる(地方知行制を温存した仙台藩など例外はある)。この名主、庄屋は昔から土地を所有している有力农民や土着した武士の末裔などがなる场合が多く、苗字帯刀あるいは诸役御免の特権を持つ者や郷士に列せられるものも多かった。また大きな村では复数名の名主、庄屋が寄合を开いて村を治めた。かれらは、年贡を滞りなく収めるようにするだけでなく、施政者の命令を下达する役目もあった。诸藩により违いはあるものの、百姓が困っている场合には彼らを代表して施政者に伝え、一揆の际には农村侧に立って先导するような百姓侧の代表としての意识の强いものと、支配机构の末端をになう下级官吏の面が强く一揆などの际に标的となる场合もあった。困穷した零细农民の土地を集积するなど地主的な侧面の强くなる近世后期には后者の面を持つものが多くなった。
読み书きを中心とした寺子屋や郷校が城下町のみならず农村部にも建てられたため、日本人の识字率は高かった。また冈山藩の闲谷学校を嚆矢として、あちこちの藩・旗本が郷民でも入校できる学校を作った。このようなことが最上徳内间宫林蔵などの农村出身者の活跃に一枚买っているといえる。
幕府により大名の大幅な配置换えが実施された江戸时代は、同时に日本中で活発な文化交流が行われた时代でもあった。例えば、三河の水野氏が备后福山に立藩したため三河の言语が备后地域に流入され、福山地方の方言に三河方言が混ざっている。また、信浓を统治していた仙石氏が但马出石に転封した际、信浓の荞麦を出石に持ち込んだため、出石そばが発祥した。このような物の交流は各地で起こっているが、これが现在の名産物になっている地域も多い。

[编集] 财政

万延大判
徳川家康は武士の支配构造の基本として重农政策を选んだため、支配者阶级である武士阶级は、その収入をに依存していた。そのため幕府の経済政策の主力は米相场を安定させる事が中心になった。しかしながら、収入を増やすために米の生産量を増やすと米価が下がると言う様になかなか思うようにはいかず、商人たちが経済の主导権を握るようになる。また、町人阶级の経済的跃进は、武士阶级を困穷させる事になり、几度も倹约令徳政令が出される事になる。
また18世纪に入ると日本は饥馑が频発するようになり、天保の大饥馑になると藩によっては収获ゼロ(津軽藩など)の所も出てくるようになる。これを见て田沼意次は、重商政策を取り入れようとしたが、反対势力によって失败に终わっている。幕府は17世纪末の元禄年间以降、货币の中に含まれる金を减らし、货币の発行量を多くすることによって货币発行益を上げて财政を持ち直そうとしたが、いずれも过度のインフレーションを招き失败に终わっている(徳川纲吉元禄改鋳徳川吉宗元文改鋳徳川家斉の顷の南镣二朱银の発行など)。

[编集] 朝廷関系

禁中并公家诸法度外戚関系紫衣事件尊号一件

[编集] 社会

五人组庆安のお触书田畑永代売买禁止令士农工商
元禄赤穂事件百姓一揆打ちこわし大塩平八郎の乱剣术道场
江戸时代には远方の寺社への巡礼、参拝がさかんになった。これは多分に娯楽的な意味を持ち、民衆が旅行するようになった起源とも言われる。中には旅行代理业者や案内业も现れ、寺社の侧に歓楽街ができたところもある。また、现在の旅行ガイドブックのような案内书も刊行されている。この远方への巡礼の背景には、五街道や宿场町の整备、治安の良化などのインフラが整ったことがある。これらの代表的なものには、西国三十三个所四国八十八个所巡礼などがある。また、江戸末期には、天理教金光教などの神道系の新宗教が现れている。
士农工商の下には、古くからあった秽多非人と呼ばれる被差别阶级があり、かれらは人の嫌がる仕事(刑死运行人・扫除など)を与えられ、その上、幕藩体制维持のために诸大名より差别政策の犠牲者となった。明治维新によって死牛马取得権などの特権を失った反面、差别は依然残り、部落解放运动につながった

[编集] 経済・贸易・対外関系

江戸时代は経済的にはめまぐるしい発展を遂げ、その资本の蓄积は、明治维新以降の経済発展の原动力となる。 各地の诸大名は、江戸藩邸や参勤交代の费用を捻出するために自藩産出の米や鱼农産物を大坂に売ったため、大坂は诸大名の蔵屋敷が置かれ全国の特産品が并び、盛况を活した。また、参勤交代やお手伝い普请で多くの诸大名が街道筋の宿屋・旅笼に泊まったため、経済の流通が活発化したのである。江戸幕府は株仲间を结成させて特定商人の独占を认めることで商业统制を行おうとした。だが、実际には江戸时代も后期に入ると、都市・地方ともに新兴商人の台头が始まり、活発な展开を见せるようになる。幕府はこうした経済発展の动きに十分な対応が取れず、物価変动による社会的混乱を镇められずに幕府が动揺する一因となった。

対外政策としては幕府は锁国政策を布いていた。しかし、将军代替りの际に行われた朝鲜通信使やオランダ商馆长らによって世界的な情势は大体把握していたといわれている。例えば天保の改革を行った水野忠邦は中国でアヘン戦争が起こると直ちに无二念打ち払い令を撤回させたようにである。また、长崎鸣滝に西洋医术の塾を开いたシーボルトのもとに多数の日本人が修学するなど西洋人と日本人との交流は盛んであった。

农业・林业
农业技术:农业器具の进歩、千歯こき备中锹、金肥料(干鰯油粕
农学:二宫尊徳
水産业
俵物干鲍フカヒレ・・・いずれも中华料理の高级食材)
鉱业
佐渡金山