治安维持法
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| 治安维持法 | |
|---|---|
| 通称・略称 | なし |
| 法令番号 | 昭和16年法律第54号 |
| 効力 | 廃止 - 昭和20年10月15日 (昭和20年勅令第575号) |
| 种类 | 公法、刑事法 |
| 主な内容 | 国体変革・私有财産制否定を目的とする结社・运动の取缔 |
| 関连法令 | 刑法、(旧)刑事诉讼法、破壊活动防止法 |
| 条文リンク | constitutional law |
治安维持法(ちあんいじほう)は、国体(天皇制)や私有财産制を否定する运动を取り缔まることを目的として制定された日本の法律。
とくに共産主义革命运动の激化を悬念したものといわれている。
目次 |
[编集] 経纬
[编集] 前身
1920年より、政府は治安警察法に代わる治安立法の制定に着手した。1917年のロシア革命による共産主义思想の拡大を胁威と见て企図されたといわれる。また、1921年4月、近藤栄蔵がコミンテルンから受け取った运动资金6500円で芸者と豪游し、怪しまれて捕まった事件があった。资金受领は合法であり、近藤は釈放されたが、政府は国际的な资金受领が行われていることを胁威とみて、これを取り缔まろうとした。また、米騒动など、従来の共産主义・社会主义者とは无関系の暴动が起き、社会运动の大衆化が进んでいた。特定の「危険人物」を「特别要视察人」として监视すれば事足りるというこれまでの手法を见直そうとしたのである。
1921年8月、司法省は「治安维持ニ関スル件」の法案を完成し、紧急勅令での成立を企図した。しかし内容に紧急性が欠けていると内务省侧の反论があり、1922年2月、过激社会运动取缔法案として帝国议会に提出された。「无政府主义共産主义其ノ他ニ関シ朝宪ヲ紊乱」する结社や、その宣伝・勧诱を禁止しようというものだった。また、结社の集会に参加することも罪とされ、最高刑は惩役10年とされた。これらの内容は、平沼骐一郎などの司法官僚の意向が强く反映されていた。しかし、具体的な犯罪行为が无くては処罚できないのは「刑法の缺陥」(司法省政府委员・宫城长五郎の答弁)といった政府侧の趣旨説明は、结社の自由そのものの否定であり、かえって反発を招いた。また、无政府主义や共産主义者の法的定义について、司法省は答弁することができなかった。さらに、「宣伝」の该当する范囲が広いため、滥用が悬念された。その结果、贵族院では法案の対象を「外国人又ハ本法施行区域外ニ在ル者ト连络」する者に限定し、最高刑を3年にする修正案が可决したが、衆议院で廃案になった。
また、1923年に関东大震灾后の混乱を受けて公布された紧急勅令 治安维持ノ为ニスル罚则ニ関スル件(大正12年勅令第403号)も前身の一つである。これは、治安维持法成立と引き替えに紧急勅令を廃止したことで、政府はその连続性を示している。
[编集] 法律制定
1925年4月22日に公布され、同年5月12日に施行[1]。普通选挙法とほぼ同时に制定されたことから饴と鞭の関系にもなぞらえられ、普通选挙実施による政治运动の活発化を抑制する意図など治安维持を理由として制定されたものと见られている。治安维持法は实时に効力を持ったが普通选挙実施は1928年まで延期された。 法案は过激社会运动取缔法案の実质的な修正案であったが、过激社会运动取缔法案が廃案となったのに治安维持法は可决した。奥平康弘は、治安立法自体への反対は议会では少なく、法案の出来具合への批判が主流であり、その结果修正案として出された治安维持法への批判がしにくくなったからではないかとしている[2]。
1928年(昭和3年)に紧急勅令「治安维持法中改正ノ件」(昭和3年6月29日勅令第129号)により、また太平洋戦争を当前にした1941年3月10日にはこれまでの全7条のものを全65条とする全面改正(昭和16年3月10日法律第54号)が行われた。
1925年法の规定では「国体ヲ変革シ又ハ私有财産制度ヲ否认スルコトヲ目的トシテ结社ヲ组织シ又ハ情ヲ知リテ之ニ添加シタル者ハ十年以下ノ惩役又ハ禁锢ニ処ス」を主な内容とした。过激社会运动取缔法案にあった「宣伝」への罚则は削除された。
1928年改正の主な特徴としては
- 「国体変革」への厳罚化
- 1925年法の构成要件を「国体変革」と「私有财産制度の否认」に分离し、前者に対して「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ结社ヲ组织シタル者又ハ结社ノ役员其ノ他指导者タル任务ニ従事シタル者ハ死刑又ハ无期若ハ五年以上ノ惩役若ハ禁锢」として最高刑を死刑としたこと。
- 「为ニスル行为」の禁止
- 「结社ノ目的遂行ノ为ニスル行为ヲ为シタル者ハ二年以上ノ有期ノ惩役又ハ禁锢ニ処ス」として、「结社の目的遂行の为にする行为」を结社に実际に添加した者と同等の処罚をもって罚するとしたこと。
- 改正手続面
- 改正案が议会において审议未了となったものを、紧急勅令のかたちで强行改正したこと
があげられる。
1941年法は同年5月15日に施行されたが、
- 全般的な重罚化
- 禁锢刑はなくなり、有期惩役刑に一本化。また刑期下限が全般的に引き上げられたこと。
- 取缔范囲の拡大
- 「国体ノ変革」结社を支持する结社、「组织ヲ准备スルコトヲ目的」とする结社(准备结社)などを禁ずる规定を创设したこと。官宪により「准备行为」を行ったと判断されれば検挙されるため、事実上谁でも犯罪者にできるようになった。また、「宣伝」への罚则も复活した。
- 刑事手続面
- 従来法においては刑事诉讼法によるとされた刑事手続について、特别な(=官宪侧にすれば简便な)手続を导入したこと、例えば、本来判事の行うべき召唤拘引等を検事の権限としたこと、二审制としたこと、弁护人は「司法大臣ノ予メ定メタル弁护士ノ中ヨリ选任スベシ」として私选弁护人を禁じたこと等。
- 予防拘禁制度
- 刑の运行を终えて釈放すべきときに「更ニ同章ニ掲グル罪ヲ犯スノ虞アルコト顕着」と判断された场合、新たに开设された予防拘禁所にその者を拘禁できる(期间2年、ただし更新可能)としたこと。
を主な特徴とする。
[编集] 廃止
1945年の终戦后も同法の运用は継続されていたが、同年9月に同法违反で服役していた哲学者の三木清が狱死したことなどから同10月4日にはGHQによる人権指令「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去に関する司令部覚书」により廃止を命じられ、东久迩内阁はそれを拒絶し総辞职、后継の币原内阁によって10月15日『「ポツダム」宣言ノ受诺ニ伴ヒ発スル命令ニ基ク治安维持法廃止等(昭和20年勅令第575号)』により廃止された。
[编集] その歴史的役割
当初治安维持法制定の背景には、ロシア革命后国际的に高まりつつあった共産主义活动を牵制する政府の意図があった。
そもそも当时の日本では、结社の自由には法律による制限があり、日本共産党は存在自体が非合法であった。また、普通选挙法とほぼセットの形で成立したのは、合法政党であっても、无産政党の议会进出を政府は胁威と见ていたからである。
后年、治安维持法が强化される过程で多くの活动家、运动家が弾圧され、小林多喜二などは取调べ中の拷问によって死亡した。ちなみに朝鲜共産党弾圧が适用第一号とされている(内地においては、京都学连事件が最初の适用例である)。
1930年代前半に、左翼运动が溃灭したため标的を失ったかにみえたが、以降は1935年の大本教への适用(大本弾圧事件)など新兴宗教(政府の用语では「类似宗教」。似非宗教という意味)や极右组织、果ては民主主义者や自由主义者の取缔りにも用いられ、必ずしも「国体変革」とは结びつかない反政府的言论への弾圧の根拠としても机能した。もっとも、奥平は右翼への适用は大本教の右翼活动を别にすれば无かったとしている[3]。
奥平康弘は1928年改正で追加された「结社ノ目的遂行ノ为ニスル行为」の禁止规定が政権や公安警察にとって不都合なあらゆる现象・行动において「结社ノ目的遂行ノ为ニスル行为」の名目で同法を适用する根拠になったと指摘している[4]。不都合な相手ならば、ただ生きて呼吸していることでさえ「结社ノ目的遂行ノ为ニスル行为」と见なされ逮捕された。こうした弾圧は公安警察という组织の维持のために新しい取り缔まり対象を用意することに迫られた结果という一面もあったといわれる。
また、治安维持法の被疑者への弁护にも弾圧の手が及んだ。三・一五事件の弁护人のリーダー格となった布施辰治は、大阪地方裁判所での弁护活动が「弁护士の体面を汚したもの」とされ、弁护士资格を剥夺された(当时は弁护士会ではなく、大审院の惩戒裁判所が剥夺の権限を持っていた)。さらに、1933年9月13日、布施や上村进などの三・一五事件、四・一六事件の弁护士が逮捕され、前后して他の弁护士も逮捕された(日本労农弁护士団事件)。その结果、治安维持法被疑者への弁护は思想的に无縁とされた弁护人しか认められなくなり、1941年の法改正では、司法大臣の指定した国选弁护人しか认められなくなった。
内地では治安维持法违反のみを理由として死刑判决を受けた人物はいない。そこには、死刑よりも『転向』させることで実际の运动から离脱させるほうが効果的であるという当局の判断があったともされている。思想犯に転向を勧めるノウハウ、论破・説得术は、一种の芸术のような高レベルだったと言われている。また、时代が进むにつれ、「転向」のハードルは上がっていった。初期は、政治活动を放弃すれば思想を変えなくても転向と见なされたが、やがてそれでは不十分とされ、ついには「日本精神」を身に付けることが転向の要件とされた。
日本共産党発行の文化评论1976年临时増刊号を信じるなら、194人が取调べ中の拷问・私刑によって死亡し、更に1503人が狱中で病死したとのことである。日本本土での検挙者は约7万人(『文化评论』1976年临时増刊号)、当时の植民地の朝鲜半岛では民族の独立运动の弾圧に用い、2万3千人以上を検挙した。
治安维持法の下、1925年から1945年の间に70,000人以上が逮捕され、その10パーセントだけが裁判にかけられ、死刑は2人の犯罪者(ゾルゲ事件で検挙されたリヒャルト・ゾルゲと彼の情报提供者であった尾崎秀実)だけに课されている[5]。ゾルゲ事件では他にも多くの人间が逮捕されたにもかかわらず処刑されたのがゾルゲと尾崎だけだった。戦后ゾルゲ事件を调査したチャールズ・ウィロビーはそれまで持っていた日本に対する认识からするとゾルゲ事件の多くの容疑者に関する量刑があまりにも軽かったことに惊いている[6]。
[编集] その后
1952年公布の破壊活动防止法は「団体のためにする行为」禁止规定などが治安维持法に酷似していると反対派に指摘され、治安维持法の复活という批判を受けた。その后も、治安立法への批判に対して治安维持法の复活という论法は频繁に使われている(通信傍受法(盗聴法)、共谋罪法案など)。
第二次世界大戦后は治安维持法については否定的な意见が主流といわれる。しかし、保守派の一部では、治安维持法拥护论もあり、また现在における必要性を主张する论者もいる。
1976年1月27日、民社党の春日一幸が衆议院本会议で宫本顕治のリンチ杀人疑惑を取り上げた际、宫本の罪状の一つとして治安维持法违反をそのまま取り上げた。そこで、宫本の疑惑の真伪とは别に、春日は治安维持法を肯定しているのかと批判を受けた。
藤冈信胜は『诸君!』1996年4月号の「自由主义史観とはなにか」で「治安维持法などの治安立法は日本がソ连の破壊活动から自国を防卫する手段」と全面的に评価し、ソ连の手先と名指しされた日本共産党などから强い反発を受けた。中西辉政も『诸君!』『正论』などで、同様の主张を行っている(『诸君!』2007年9月号「国家情报论 21」。『正论』2006年9月号など)。
いずれも、反共主义の立场から「絶対悪としての共産主义」を灭ぼすためには当然の法律であったという肯定论である。
[编集] その他
1948年に制定された韩国の国家保安法は治安维持法をモデルにしたと言われている。
[编集] 脚注
- ^ 天皇の勅令により当时は日本の植民地であった朝鲜、台湾、桦太にも施行され、独立运动をも弾圧した。
- ^ 奥平康弘『治安维持法小史』 岩波书店〈岩波现代文库〉、2006年6月。ISBN 9784006001612 pp.55-56
- ^ 前掲、奥平 pp.229-230
- ^ 前掲、奥平 pp.115-120
- ^ (英语版Wikipedia)Peace Preservation Law 23:27, 4 October 2008 UTC
- ^ 『赤色スパイ団の全貌 : ゾルゲ事件』福田太郎訳、东西南北社刊、1953年

