法隆寺
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| 法隆寺 | |
|---|---|
西院伽蓝远景 |
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| 所在地 | 奈良県生驹郡斑鸠町法隆寺山内1-1 |
| 位置 | 北纬34度36分53.06秒 东経135度44分3.02秒 |
| 宗派 | 圣徳宗 |
| 寺格 | 総本山 |
| 本尊 | 釈迦如来 |
| 创建年 | (伝)推古天皇15年(607年) |
| 开基 | 推古天皇・圣徳太子 |
| 别称 | 斑鸠寺 |
| 札所等 | 南都七大寺7番 神仏霊场 巡拝の道 第26番 |
| 文化财 | 金堂、五重塔、梦殿他(国宝) 中门金刚力士像他(重要文化财) 世界遗産 |
法隆寺(ほうりゅうじ) は、奈良県生驹郡斑鸠町にある圣徳宗の総本山である。别名を斑鸠寺(いかるがでら)という。
目次 |
[编集] 概要
圣徳太子こと厩戸王ゆかりの寺院であり、创建は同じく圣徳太子ゆかりの寺院である大阪の四天王寺より约20年后の607年とされるが、确证はない。金堂、五重塔などがある西院と、梦殿などのある东院に分かれる。西院伽蓝は现存する世界最古の木造建筑物群である。法隆寺の建筑物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遗産(文化遗産)に登録された。
[编集] 歴史
[编集] 创建
法隆寺は「日本仏教兴隆の祖である圣徳太子が创建した寺院である」とするのが、通用・常识的理解である。圣徳太子は谜の多い人物であり、20世纪末顷からは「圣徳太子は実在しなかった」とする言説が盛んになっているが、これには反论も出されている。『<圣徳太子>の诞生』の着者である大山诚一は、超人的人物として信仰の対象となっている「圣徳太子」は架空の存在だとしながらも、「圣徳太子」のモデルとなった厩戸王という人物の存在と、その人物が斑鸠宫及び斑鸠寺を建てたことは史実と认めている。
现存する法隆寺西院伽蓝は圣徳太子在世时のものではなく、7世纪后半 - 8世纪初の创建であることは定説となっており、この伽蓝が建つ以前に焼失した前身寺院(いわゆる若草伽蓝)が存在したことも発掘调査で确认されている。また、圣徳太子の斑鸠宫迹とされる法隆寺东院の地下からも前身建物の迹が検出されている。以上のことから、「圣徳太子」の人物像には后世の润色が多く含まれているとしても、そのモデルとなった厩戸王によって7世纪の早い时期、斑鸠の地に仏教寺院が営まれたことは史実と认められている。
通説によれば、推古天皇9年(601年)、圣徳太子は斑鸠の地に斑鸠宫を建て、この近くに建てられたのが法隆寺であるとされる。金堂の「东の间」に安置される铜造薬师如来坐像(国宝)の光背铭には「用明天皇が自らの病気平愈のため伽蓝创建を発愿したが、用明天皇がほどなく亡くなったため、遗志を継いだ推古天皇と圣徳太子があらためて推古天皇15年(607年)、像と寺を完成した」という趣旨の记述がある。しかし、正史である『日本书纪』には(后述の670年の火灾の记事はあるが)法隆寺の创建については何も书かれていない。
前述の金堂薬师如来像については
- 像自体の様式や鋳造技法の面から、実际の制作は7世纪后半に下るとみられること
- 607年当时、日本における薬师如来信仰の存在が疑问视されること
- 铭文中の用语に疑问がもたれること
という理由から、文字通り607年までさかのぼる制作とは见なされていない。また、金堂の中央に安置される本尊は「623年に圣徳太子の冥福のため止利が造った」という内容の光背铭をもつ釈迦三尊像であり、これより古い薬师如来像が「东の间」に安置されて脇仏のような扱いをされている点も不审である。
このように、若干の不明点は残るものの、法隆寺の创建が7世纪前半の圣徳太子在世时にさかのぼることは、発掘调査の结果等からも明らかである。皇极天皇2年(643年)、苏我入鹿が山背大兄王を袭った际に斑鸠宫は焼失したが、法隆寺はこの时は无事だったと考えられる。
日本书纪巻27に「夏四月癸卯朔壬申 夜半之后 灾法隆寺 一屋无余」(天智天皇9年・670年に法隆寺は一屋余すところなく焼失した)という记事がある。この记事の真伪をめぐって、现存する法隆寺西院伽蓝は圣徳太子创建时のものであるとする説と、670年に全焼した后、再建したものであるとする説とが鋭く対立し、いわゆる「再建・非再建论争」が起きた(くわしくは后述)。なお、発掘调査や建筑用材の伐采年代の科学的调査などの里付けから、现存する法隆寺西院伽蓝は一度焼失した后に再建されたものであるということは定説となっている。ただし、皇极天皇2年(643年)の上宫王家(圣徳太子の家)灭亡后、谁が西院伽蓝を再建したのかなど、再建の正确な时期や経纬については谜も多い。焼失前の旧伽蓝(いわゆる「若草伽蓝」)は、现存の西院伽蓝の位置ではなく、かなり南东寄りに位置していた。また、现存の西院伽蓝がほぼ南北方向の中轴线に沿って建てられているのに対し、旧伽蓝の中轴线はかなり北西方向に倾斜している。さらに、现・西院伽蓝の建つ土地は、尾根を削り、両侧の谷を埋めて整地したものであることがわかっており、なぜ、大规模な土木工事を行ってまで伽蓝の位置や方位を変更したのかは定かでない。
再建时期についても明确な记録はないが、现存の西院伽蓝の建筑を见ると、细部の様式などから、金堂がもっとも年代が上がり、五重塔がそれに続き、中门、回廊はやや遅れての建筑と见られる。『法隆寺伽蓝縁起并流记资财帐』によれば、中门の仁王像や五重塔初层安置の塑造雕刻群は和铜4年(711年)の制作とあり、この顷には西院伽蓝全体が完成していたと考えられる。なお、平安时代に书かれた『七大寺年表』には和铜年间に法隆寺が建てられた、とある。
一方、八角堂の梦殿を中心とする东院伽蓝は、天平10年(738年)顷、行信僧都が斑鸠宫の旧地に太子をしのんで创建したものである。
延长3年(925年)には西院伽蓝のうち大讲堂、钟楼が焼失し、大讲堂が再建されたのは数十年后の正暦元年(990年)のことであった。以后、永享7年(1435年)に南大门が焼失するなど、何度かの火灾に遭ってはいるが、全山を焼失するような大火灾には遭っておらず、建筑、仏像をはじめ各时代の多くの文化财を今日に伝えている。
近世に入って、庆长年间(17世纪初头)には豊臣秀頼によって、元禄 - 宝永年间(17世纪末~18世纪初头)には江戸幕府5代将军徳川纲吉の生母桂昌院によって伽蓝の修造が行われた。
近代に入ると、廃仏毁釈の影响で寺の维持が困难となり、1878年(明治11年)には管长千早定朝の决断で、圣徳太子画像(唐本御影)をはじめとする300件余の宝物を当时の皇室に献纳し、金一万円を下赐された。これらの宝物は「法隆寺献纳宝物」と呼ばれ、その大部分は东京国立博物馆の法隆寺宝物馆に保管されている。
1934年(昭和9年)から「昭和の大修理」が开始され、金堂、五重塔をはじめとする诸堂宇の修理が行われた。「昭和の大修理」は第二次世界大戦を挟んで半世纪あまり続き、1985年(昭和60年)に至ってようやく完成记念法要が行われた。この间、1949年(昭和24年)には修理解体中の金堂において火灾が発生し、金堂初层内部の柱と壁画を焼损した。このことがきっかけとなって、文化财保护法が制定されたことはよく知られる。1950年に法相宗から独立した。
1981年(昭和56年)からは「昭和资财帐调査」として、寺内の膨大な文化财の再调査が実施され、多くの新発见があった。调査の成果は『法隆寺の至宝-昭和资财帐』として小学馆から刊行されている。
[编集] 再建・非再建论争
法隆寺ではこの寺は圣徳太子创建のままであるという伝承を持っていた。しかし、明治时代の歴史学者は『日本书纪』の天智天皇9年(670年)法隆寺焼失の记述からこれに疑问を持ち、再建説を取った。これに対して建筑史の立场から反论が行われ、歴史界を二分する论争が起こった。再建派の主要な论者は黒川真頼、小杉榲邨(こすぎすぎむら)、喜田贞吉ら、非再建派は建筑史の関野贞、美术史の平子铎岭(ひらこたくれい)らであった。
- 非再建论の主张
- 再建论の主张
- 日本书纪の记事は正确である。
- 飞鸟时代の様式や高丽尺が使われているといっても建设年代の决定的な证拠にはならない。 など
この他、论争の过程で、飞鸟时代に2つの寺が并存していた(一方が焼失した)等の説も出された。
非再建论の主な论拠は建筑史上の様式论であり、関野贞の「一つの时代には一つの様式が対応する」という信念が基底にあった。一方、再建论の论拠は文献であり、喜田贞吉は「文献を否定しては歴史学が成立しない」と主张した。论争は长期に及びなかなか决着を见なかったが、1939年(昭和14年)、圣徳太子当时のものであると考えられる前身伽蓝、四天王寺式伽蓝配置のいわゆる「若草伽蓝」の遗构が発掘されたことから、次第に再建説が有力となった。
[编集] 最新の研究
2004年(平成16年)、奈良文化财研究所は高精度デジタルカメラ(千百万画素)で撮影した画像による年轮年代测定の结果を発表した。それによると、法隆寺金堂、五重塔、中门に使用されたヒノキやスギの部材は650年代末から690年代末に伐采されたものであるとされ、法隆寺西院伽蓝は7世纪后半の再建であることがあらためて里付けられた。问题は、金堂の部材が、日本书纪の伝える法隆寺炎上の年である670年よりも前の伐采と见られることである。伐采年が日本书纪における法隆寺の焼失の年を遡ることは、若草伽蓝が焼失する以前に现在の伽蓝の建筑计画が存在した可能性をも示唆するものであるが、これについては、若草伽蓝と现在の伽蓝の敷地があまり重なり合っていないことから、现在の伽蓝は若草伽蓝が存在している时期に建设が开始されたのではないかと考える研究者も存在する[1]。
なお、五重塔の心柱の用材は年轮年代测定によって最も外侧の年轮が591年のものとされており、他の部材に比べてなぜ心柱材のみが特に古いのかという疑问が残った。心柱材については、圣徳太子创建时の旧材を転用したとも考えられている。
[编集] 『隠された十字架』を巡る论争
1972年に梅原猛が発表した论考『隠された十字架』は、西院伽蓝の中门が4间で中央に柱が立っているという特异な构造に注目し、出云大社との类似性を指摘して、再建された法隆寺は王権によって子孙を抹杀された圣徳太子の怨霊を封じる为の寺なのではないかとの説を主张した。この説は大论争を巻き起こしたが、歴史学の研究者は、通用な怨霊信仰の成立が奈良时代末期であることなどを指摘し、概ね梅原説には批判的であった。
とはいえ、本书が与えた影响は大きなものがあり、山岸凉子は本书に直接のインスピレーションを得て『日出処の天子』を発表した。また建筑家の武泽秀一は、中门の中心にある柱が怨霊封じの为であるという梅原の説は退けつつも、梅原の问题提起を高く评価し、イーフー・トゥアンなど现象学的空间论を援用しながら、法隆寺西院伽蓝の空间设计が、それ以前の四天王寺様式が持つ圧迫感を和らげる为に考案されたものであり、先行する百済大寺(武泽は吉备池廃寺を百済大寺に比定して论を展开している)や川原寺で试みられた「四天王寺様式を横にした」空间构筑の完成形であったのではないかと论じている[2]。
[编集] 近代以降
- 1878年(明治11年)300件余の宝物を当时の皇室に献纳し、金一万円を下赐された。これがいわゆる「法隆寺献纳宝物」で、第二次大戦后は大部分が东京国立博物馆の所蔵となり、ごく一部が皇室御物および宫内庁保管となっている。
- 1882年(明治15年)法相宗に転じる。
- 1884年(明治17年)フェノロサ、冈仓天心らにより法隆寺の宝物调査が行われ、梦殿の救世観音像がこの时数百年ぶりに开扉されたという(异説もある)。
- 1903年(明治36年)佐伯定胤が管主となり、廃仏毁釈で衰微していた唯识の教えを复兴する。
- 1934年(昭和9年)「昭和の大修理」が开始。
- 1939年(昭和14年)「若草伽蓝」発掘。
- 1949年(昭和24年)金堂壁画を火灾で焼损。
- 1950年(昭和25年)法相宗を离脱し、圣徳宗を开く。
- 1985年(昭和60年)昭和の大修理完成。
- 1993年(平成5年)12月9日ユネスコの世界文化遗産に登録。
[编集] 伽蓝
[编集] 西院伽蓝
南大门を入って正面のやや小高くなったところに位置する。向かって右に金堂、左に五重塔を配し、これらを平面「凸」字体の回廊が囲む。回廊の南正面に中门(ちゅうもん)を开き、中门の左右から伸びた回廊は北侧に建つ大讲堂の左右に接して终わっている。回廊の途中、「凸」字の肩のあたりには东に钟楼、西に経蔵がある。以上の伽蓝を西院伽蓝と呼んでいる。金堂、五重塔、中门、回廊は圣徳太子在世时のものではなく7世纪后半顷の再建であるが、世界最古の木造建造物群であることは间违いない。
- 中门(国宝)
- 入母屋造の二重门。日本の寺院の门は正面の柱间が奇数(3间、5间、7间等)になるのが普通だが、この门は正面柱间が4间で、真中に柱が立つ点が特异である。门内の左右に塑造金刚力士立像を安置する。日本最古(8世纪初)の仁王像として贵重なものであるが、风雨にさらされる场所に安置されているため、补修が甚だしく、吽形(うんぎょう)像の体部は木造の后补に代わっている。门は现在、出入り口としては使用されず、金堂等の拝観者は回廊の西南隅から入る。
- 金堂(国宝)
- 入母屋造の二重仏堂。ただし上层に部屋等がある訳ではなく、屋根を二重にしたのは外観を立派にするためである。金堂に见られる组物(轩の出を支える建筑部材)は、云斗、云肘木などと呼ばれ、曲线を多用した独特のものである。この他、二阶の卍くずしの高栏(手すり)、それを支える「人」字体の束(つか)も独特である。これらは法隆寺金堂・五重塔・中门、法起寺三重塔、法轮寺三重塔のみに见られる様式で7世纪建筑の特色である。
- 二重目の轩を支える四方の龙の雕刻を刻んだ柱は构造を补强するため鎌仓时代の修理の际に付加されたものである。金堂の壁画は日本の仏教絵画の代表作として国际的に着名なものであったが、1949年、壁画模写作业中の火灾により、初层内阵の壁と柱を焼损した。黒こげになった旧壁画(重文)と柱は现存しており、寺内大宝蔵院东侧の収蔵库に保管されているが、非公开である。なお、解体修理中の火灾であったため、初层の裳阶(もこし)部分と上层のすべて、それに堂内の诸仏は难をまぬがれた。この火灾がきっかけで文化财保护法が制定され、火灾のあった1月26日が文化财防火デーになっている。(金堂壁画については别项「法隆寺金堂壁画」を参照。)
- 堂内は中の间、东の间、西の间に分かれ(ただし、これらの间に壁等の仕切りがあるわけではない)、それぞれ釈迦如来、薬师如来、阿弥陀如来を本尊として安置する。
- 釈迦三尊像(国宝)
- 「歴史」の项で述べた、623年、止利仏师作の光背铭を有する像で、日本仏教雕刻史の初头を饰る名作である。図式的な衣文の処理、杏仁形(アーモンド形)の眼、アルカイックスマイル(古式の微笑)、太い耳朶(耳たぶ)、首に三道(3つのくびれ)を刻まない点など、后世の日本の仏像と异なった様式を示し、大陆风が顕着である。
- 薬师如来坐像(国宝)
- 「歴史」の项で述べた东の间本尊。本像の脇持とされる日光・月光菩萨像は别に保管されるが、作风が异なり、本来一具のものではない。
- 阿弥陀三尊像(重文)
- 鎌仓时代の庆派の仏师・康胜の作。元来の西の间本尊が中世に盗难にあったため、新たに作られたもの。全体の构成、衣文などは鎌仓时代の仏像にしては古风で、东の间の薬师如来像を模したと思われるが、顔の表情などは全く鎌仓时代风になっている。なお、両脇侍像のうち1体は明治时代に寺外に出て、现在フランス・ギメ美术馆蔵となっており、现在金堂にあるのは模造である。
- 四天王立像(国宝)
- 飞鸟时代の作。釈迦三尊像、薬师如来像が铜造であるのに対し、木造彩色である。后世の四天王像と违って、怒りの表情やポーズを表面にあらわさず、邪鬼の上に直立不动の姿势で立つ。
- 中の间本尊釈迦三尊像の左右に立つ、平安时代の木造彩色像。
なお、中の间と西の间の本尊の头上にある天盖(重文)も飞鸟时代のものである(东の间の天盖は鎌仓时代)。
- 五重塔(国宝)
- 木造塔として日本最古のもの。初重から五重までの屋根の逓减率(大きさの减少する率)が高いことがこの塔の特色で、五重の屋根の一辺は初重屋根の约半分である。初重内阵には东面・西面・南面・北面それぞれに塔本四面具(国宝)と呼ばれる塑造の群像を安置する(计80点の塑像が国宝)。この塑像に使用された粘土は、寺の近くの土と成分がほぼ等しいことから近くの土で作られたと推测される。东面は「维摩経」(ゆいまきょう)に登场する、文殊菩萨と维摩居士の问答の场面、北面は釈迦の涅盘、西面は分舎利(インド诸国の王が釈尊の遗骨を分配)の场面、南面は弥勒の浄土を表わす。北面の釈迦の入灭を悲しむ仏弟子の像が特に有名である。五重塔内部にも壁画(现在は别途保管、重文)があったが、上から漆喰が涂られたりしたため、剥落が激しい。
- 回廊(国宝)
- 金堂などとほぼ同时期の创建。廊下であるとともに、圣域を区切る障壁でもある。ただし、大讲堂寄りの折れ曲がり部分より北は平安时代の创建である。当初の回廊は大讲堂前で闭じており、大讲堂は回廊外にあった。
- 経蔵(国宝)
- 奈良时代の楼造(二阶建)建筑。観勒僧正坐像(重文)を安置するが、内部は非公开。
- 钟楼(国宝)
- 経蔵と対称位置に建つが、创建时代は平安期。
- 大讲堂(国宝)
- 平安时代の创建。薬师三尊像(平安时代、国宝)と四天王像(重文)を安置する。
[编集] 东院伽蓝
圣徳太子一族の住居であった斑鸠宫の迹に创建された。回廊で囲まれた中に八角円堂の梦殿が建ち、回廊南面には礼堂、北面には絵殿及び舎利殿があり、絵殿及び舎利殿の北に接して伝法堂が建つ。
- 梦殿(国宝)
- 天平时代の创建。堂内に圣徳太子の等身像とされる救世観音像を安置する。
- 観音菩萨立像(救世観音)(国宝)
- 飞鸟时代、木造。梦殿中央の厨子に安置する。长年秘仏であり、白布に包まれていた像で、明治初期に冈仓天心とフェノロサが初めて白布を取り、「発见」した像とされている(天心らによる「発见」の経纬については伝説化されている部分もあり、真相は必ずしも明らかでない)。现在も春・秋の一定期间しか开扉されない秘仏である。当初のものと思われる金箔がよく残る。
- 行信僧都坐像(国宝)
- 天平时代の干漆像。行信は东院の创建に尽力した人物である。极端な吊り目の怪异な容貌が特色。
- 道诠律师坐像(国宝)
- 平安初期の作。この时代の仏像はほとんどが木雕であるが、本像は珍しい塑造である。道诠は、荒廃していた东院の复兴に尽力した人物。
- 圣観音立像(重文)
- 救世観音の背后に立つ。
- 絵殿及び舎利殿(重文)
- 鎌仓时代の创建。
- 伝法堂(国宝)
- 橘夫人(県犬养橘三千代(藤原不比等夫人、光明皇后母)と寺伝承では伝えられるが、现在では圣武天皇夫人・橘古奈可智とする説が有力)の住居を移転して仏堂に改めたものとされ、奈良时代の住宅遗构としても贵重である。多数の仏像を安置するが、通常は公开していない。内阵は中の间、东の间、西の间に分かれ、それぞれ干漆造阿弥陀三尊像(奈良时代、重文)が安置される。他に梵天・帝釈天立像、四天王立像、薬师如来坐像、釈迦如来坐像、弥勒仏坐像、阿弥陀如来坐像(各木造、平安时代、重文)を安置する。
东院には他に南门(鎌仓时代、重文)、四脚门(鎌仓时代、重文)、钟楼(鎌仓时代、国宝)がある。
[编集] 大宝蔵院
百済観音像をはじめとする寺宝を公开している。百済観音堂および东宝殿、西宝殿からなる建物で1998年(平成10年)完成した。
- 観音菩萨立像(百済観音)(国宝)
- 飞鸟时代、木造。もとは金堂内阵の里侧に安置されていた。细身で九头身の特异な像容を示す。和辻哲郎の『古寺巡礼』をはじめ、多くの文芸作品の中で絶賛されてきた着名な像であるが、その伝来や造像の経纬などはほとんど不明である。「百済観音」の通称は近代になってからのもので、明治初期まで寺内では「虚空蔵菩萨像」と呼ばれていた。详しい解説は别项「百済観音」を参照。
- 観音菩萨立像(九面観音)(国宝)
- 唐から将来の像。香木を用い、彩色を施さず白木で仕上げた、いわゆる檀像と呼ばれる像である。细かい装身具、体部から游离している耳饰や天衣まで完全に一木で雕り上げた技巧的な像である。
- 観音菩萨立像(梦违観音)(国宝)
- 奈良时代、铜造。もと东院絵殿の本尊。悪梦を良梦に替えてくれるという伝説からこの名がある。
- 地蔵菩萨立像(国宝)
- 平安时代、木造。桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ)の神宫寺である大御轮寺(だいごりんじ)にあったが、明治の神仏分离で法隆寺へ移动した。大宝蔵院ができるまでは金堂内阵の里侧に安置されていた。
- 六観音像(重文)
- 奈良时代、木造。六観音像と通称され、重要文化财の指定名称は「観音・势至菩萨」、「日光・月光菩萨」、「文殊・普贤菩萨」となっているが、本来の名称は明らかでない。少しずつ様式の异なる3対の像から成る。东京の根津美术馆には、この六観音像と酷似した菩萨像があり、もとは8体あったものとも言われる。
- 梵天・帝釈天立像、四天王立像(重文)
- いずれも奈良时代の塑像で、もとは食堂(じきどう)本尊の薬师如来像を囲んで安置されていたものである。
- 玉虫厨子(国宝)
- 飞鸟时代。もとは金堂に安置されていた、仏堂形の厨子である。建筑様式的には法隆寺の西院伽蓝よりやや古い时代を示し、飞鸟时代の建筑、工芸、絵画の遗品として重要である。透かし雕りの饰金具の下に本物の玉虫の羽を敷き诘めて装饰したことからこの名がある。现在、玉虫の羽は一部に残るのみで、当初の华丽さを想像するのはむずかしい。厨子の扉や壁面の装饰画も着名で、釈迦の前世物语である「舍身饲虎図」(しゃしんしこず)、また「施身闻偈図」(せしんもんげず)は特によく知られる。
- 橘夫人厨子及び阿弥陀三尊像(国宝)
- 奈良时代。やはり金堂に安置されていたもの。厨子内の阿弥陀三尊像は奈良时代の金铜仏の代表作で、莲池から生じた3つの莲华の上に三尊像が表わされている。
- 金堂小壁画(重文)
- 1949年の金堂の火灾の际、取り外されていたため难をまぬがれた、小壁の天人の壁画20面である。20面のうち一部が展示されている。
また、仏画、仏具、舞楽面、経典なども随时展示替えをしつつ公开されている。保存上の理由から常时公开されていない寺宝として四骑狮子狩文锦(唐时代、国宝)、黒漆螺钿卓(平安时代、国宝)などがある。
[编集] 大宝蔵殿
大宝蔵院とは别个の建物。1939年の建设で、大宝蔵院が完成するまでは、この大宝蔵殿で多くの寺宝が公开されていた。现在は、春秋の観光シーズンのみ开馆し、大宝蔵院に展示しきれないさまざまな寺宝を公开している。
[编集] その他のおもな堂宇
法隆寺境内には、以上に述べた他に多くの堂宇や子院と呼ばれる付属寺院がある。なお、西円堂以外の堂内や仏像は原则として非公开である。
- 南大门(国宝)
- 西院伽蓝の南方、境内入口に建つ。入母屋造の一重门。室町时代(1438年)に、当时の西大门を移筑し创建。
- 西园院客殿(重文)、西园院上土门(あげつちもん、重文)、西园院唐门(重文)
- 西园院は法隆寺の本坊(住职の居所)であり、南大门を入って左侧、筑地塀の内侧にある。なお、西院・东院の筑地塀も重文に指定されている。
- 大汤屋(重文)、大汤屋表门(重文)
- 西园院の西方、筑地塀の内侧にある。
- 新堂(重文)
- 西园院に接して建つ持仏堂。薬师三尊像、四天王像(各重文)を安置。
- 护摩堂
- 南大门を入って右侧の子院・弥勒院に接して建つ。不动明王及び二童子像、弘法大师坐像(各重文)を安置。
- 圣霊院(しょうりょういん)(国宝)
- 西院伽蓝の东侧に建つ、圣徳太子を祀る堂。鎌仓时代の创建。この建物は本来は东室の一部であったが、1121年にこれを再建するときに南半を改造して圣霊院とし、圣徳太子像を祀った。现在の圣霊院は1284年に改筑されたものである。圣徳太子及び眷属像(平安时代、国宝)、如意轮観音半跏像(重文)、地蔵菩萨立像(重文)を安置。太子の命日の旧暦2月22日を中心に(现在は3月22日~24日)、法隆寺最大の行事であるお会式(おえしき)が行われる。
- 东室(ひがしむろ)(国宝)
- 圣霊院の北に接続して建つ。后世の补修・改造が多いが、基本的には奈良时代の建筑で、当时の僧坊建筑の遗构として贵重である。
- 妻室(つまむろ)(平安时代、重文)
- 东室の东に建つ细长い建物。
- 三経院及び西室(国宝)
- 西院伽蓝の西侧、圣霊院と対称的な位置に建つ。鎌仓时代の创建。阿弥陀如来坐像持国天・多闻天立像(各重文)を安置。
- 西円堂(国宝)
- 西院伽蓝の西北の丘の上に建つ八角円堂。鎌仓时代の创建。堂内の空间いっぱいに坐す本尊薬师如来坐像(国宝)は、奈良时代の干漆像。本尊台座周囲には小ぶりな十二神将立像(重文)、千手観音立像(重文)を安置する。
- 薬师坊库里(重文)
- 西円堂の背后に建つ。
- 上御堂(重文)
- 西院伽蓝の大讲堂の真里(北)に建つ。鎌仓时代の创建。釈迦三尊像(国宝)、四天王立像(重文)を安置。通常非公开だが、毎年11月1日~3日に限り堂内を公开。
- 地蔵堂(重文)
- 西円堂の东侧石段下に建つ。地蔵菩萨半跏像(重文)を安置。
- 食堂(じきどう)(奈良时代、国宝)および细殿(ほそどの)(鎌仓时代、重文)
- 西院伽蓝の东方北寄りに建つ。食堂本尊の薬师如来坐像(重文)は奈良时代の塑像だが、补修が多い。本尊以外の仏像は大宝蔵院に移されている。
- 纲封蔵(こうふうぞう)(国宝)
- 圣霊院の东に建つ、奈良时代~平安初期の仓库である。
- 东大门(国宝)
- 西院から东院へ向かう道筋に建つ、奈良时代の八脚门。
- 旧富贵寺罗汉堂(重文)
- 西院から东院へ向かう道筋の南侧、筑地塀の内侧にひっそりと建つ。もとは奈良県川西町の富贵寺(无住)にあり、荒れ果てていたのを、细川护立(侯爵、美术史家)が引き取り保存していたが、后、法隆寺へ寄进。平安时代の三重塔の初层のみが残ったものと思われる。
[编集] 子院
- 中院本堂(重文)
- 境内西端にある。
- 宝珠院本堂(重文)
- 境内西端にある。堂内に文殊菩萨骑狮像(重文)を安置。
- 律学院本堂(重文)
- 西院から东院へ向かう道筋の北侧にある。
- 宗源寺四脚门(重文)
- 西院から东院へ向かう道筋の北侧にある。
- 福园院本堂(重文)
- 西院から东院へ向かう道筋の南侧にある。
- 北室院本堂、同・太子殿、同・表门(各重文)
- 东院伽蓝の北方にある。本堂には阿弥陀三尊像(重文)を安置する。
[编集] 文化财
[编集] 法隆寺献纳宝物
明治维新以后の廃仏毁釈により民衆による破壊にさらされ、さらに幕政时代のような政府による庇护がなくなった全国の仏教寺院は、财政面で困穷の渊にあった。また多くの寺院は堂塔が老朽化し、重みで落ちそうな屋根全体を鉄棒で支えるような状况に至っていた。文明开化の时代に古い寺社を文化遗産とする価値観はまだなく、法隆寺はじめ多くの寺院が存続困难となり、老朽化した伽蓝や堂宇を弃却するか売却するかの选択を迫られた。
法隆寺は、1878年(明治11年)贵重な寺宝300件余を皇室に献纳し、代偿として一万円を下赐された。この皇室の援助のおかげで7世纪以来の伽蓝や堂宇が维持できることとなった。皇室に献纳された宝物は、一时的に正仓院に移されたのち、1882年(明治15年)に帝室博物馆に「法隆寺献纳御物」(皇室所蔵品)として収蔵された。戦后、宫内省所管の东京帝室博物馆が国立博物馆となった际に、法隆寺に返还された4点と宫中に残された10点の宝物を除き、全てが国立博物馆蔵となった。さらにその后、宫中に残された宝物の一部が国に譲られ、これら约320件近くの宝物は、现在东京国立博物馆法隆寺宝物馆に保存されている。(有名な『圣徳太子及び二王子像』や『法华义疏』などは现在も皇室が所有する御物である)
[编集] 指定文化财
境内が国の史迹に指定されている。
[编集] 国宝
建造物
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美术工芸品
- 铜造釈迦如来及両脇侍像 止利作(金堂安置)
- 铜造薬师如来坐像(金堂安置)
- 木造四天王立像(金堂安置)
- 木造毘沙门天・吉祥天立像(金堂安置)
- 塑造塔本四面具 78躯・2基(五重塔安置)
- 木造薬师如来及両脇侍坐像(大讲堂安置)
- 干漆薬师如来坐像(西円堂安置)
- 木造釈迦如来及両脇侍坐像(上御堂安置)
- 铜造阿弥陀如来及両脇侍像(伝橘夫人念持仏)・木造厨子(所在大宝蔵院)
- 铜造観音菩萨立像(梦违観音)(所在大宝蔵院)
- 木造観音菩萨立像(九面観音)(所在大宝蔵院)
- 木造観音菩萨立像(百済観音)(所在大宝蔵院)
- 木造地蔵菩萨立像(所在大宝蔵院)
- 木造圣徳太子・山背王・殖栗王・卒末吕王・恵慈法师坐像(圣霊院安置)
- 木造観音菩萨立像(救世観音)(梦殿安置)
- 干漆行信僧都坐像(所在梦殿)
- 塑造道诠律师坐像(所在梦殿)
- 玉虫厨子
- 黒漆螺钿卓
- 四骑狮子狩文锦
[编集] 重要文化财
建造物
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絵画
- 金堂外阵旧壁画 12面
- 金堂内阵旧壁画 20面
- 五重塔初层旧壁画 18面
- 绢本着色五尊像
- 绢本着色孔雀明王像
- 绢本着色十六罗汉像 八曲屏
- 绢本着色星曼荼罗図
- 绢本着色星曼荼罗図(2004年重文指定)
- 绢本着色法华曼荼罗図
- 绢本着色圣皇曼荼罗図 尭尊笔
- 绢本着色圣徳太子像
- 绢本着色毘沙门天像
- 绢本着色莲池図(旧舎利殿须弥坛后壁贴付) 二曲屏风
- 纸本着色扇面古写経
雕刻
指定件数が多いため、安置场所ごとに区分して示した。同一名称でまぎらわしいものに限り、像高、重文指定年度などを注记した。
- (中门安置) 塑造金刚力士立像(吽形躰部木造)
- (金堂安置)金铜阿弥陀三尊像(康胜作)[3]
- (経蔵安置)木造伝観勒僧正坐像
- (大讲堂安置)木造四天王立像
- (圣霊院安置)木造地蔵菩萨立像、木造如意轮観音坐像
- (三経院安置)木造阿弥陀如来坐像、木造持国天・増长天立像
- (西円堂安置)木造十二神将立像[4] 、木造千手観音立像
- (地蔵堂安置)木造地蔵菩萨半跏像
- (上御堂安置)木造四天王立像
- (食堂安置)塑造薬师如来坐像
- (新堂安置) 木造薬师如来両脇士像、木造四天王立像
- (护摩堂安置)木造不动明王及二童子立像、木造弘法大师坐像
- (宝珠院本堂安置)木造文殊菩萨骑狮像(宝珠院所有)
- (梦殿安置) 木造圣観音立像、木造圣徳太子立像
- (伝法堂安置)干漆阿弥陀如来及両脇侍像(1909年重文指定、中の间本尊)、干漆阿弥陀如来及両脇侍像(1902年重文指定、西の间本尊)、木心干漆阿弥陀如来及両脇侍像(东の间本尊)[5] 、木造梵天・帝釈天立像、木造四天王立像、木造薬师如来坐像、木造釈迦如来坐像、木造弥勒仏坐像、木造阿弥陀如来坐像
- (北室院本堂安置)木造阿弥陀如来及両脇侍像(北室院所有)
- (大宝蔵院所在) 金铜釈迦如来文殊菩萨像一座(戊子年铭)、铜造観音菩萨立像(伝・金堂薬师如来脇侍)2躯、塑造吉祥天立像、金铜薬师如来坐像(伝西円堂薬师如来胎内仏)、木心干漆弥勒菩萨坐像、木造文殊・普贤菩萨立像(伝六観音のうち)、木造日光・月光菩萨立像(伝六観音のうち)、木造観音・势至菩萨立像(伝六観音のうち)、金铜観音菩萨立像[6] 、金铜観音菩萨立像3躯[7] 、塑造梵天・帝釈天立像、塑造四天王立像、厨子入木造圣徳太子坐像 円快作、木造如意轮観音坐像、厨子入铜板押出阿弥陀三尊及僧形像・铜板押出如来及両脇侍立像(板扉贴付)・铜板舟形后屏(铜板押出天盖付)、砖制阿弥陀如来及脇侍像、木造伎楽面1面、木造舞楽面35面、木造行道面(圣霊会所用)10面、木造菩萨面3面
- (大宝蔵殿所在) 木造千手観音立像、木造弥勒菩萨坐像、木造弥勒菩萨半跏像、木造薬师如来坐像、木造釈迦如来坐像、木造阿閦如来坐像、木造阿弥陀如来坐像(像高92cm、1906年重文指定)、木造阿弥陀如来坐像(像高34cm、1906年重文指定)、木造圣観音立像(像高165cm、1897年重文指定) 木造圣観音立像(像高182cm、1909年重文指定) 木造普贤延命坐像 木造天鼓音如来坐像、木造善女竜王立像、木造光背、金铜僧徳聡等造像记(甲午年铭)、木造追傩面3面
- (その他) 木造阿弥陀如来坐像(东京国立博物馆寄托、1909年重文指定)、金铜釈迦如来立像(1910年盗难)
工芸品
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书迹典籍、古文书、歴史资料
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[编集] 宝钟の発见
仏具の用语としてしか残っていなかった「宝钟」が法隆寺で発见された(1992年1月10日付)[要出典]。环形蛍光灯をひもでつなぎぶら下げたような形で、室町时代以前の作であることが伞の里の墨书铭からわかった。建物の轩の下にさげられたと推测されている[要出典]。
[编集] 主な行事
- 1月1日 - 3日 舎利讲 圣徳太子二歳のとき、「南无仏」と唱えたところ出现した仏舎利を本尊として行なわれる法要。
- 1月5日 初护摩祈愿法要
- 1月8日 - 14日 金堂修正会 神护景云2年(768)以来続く伝统行事。国家安隠、万民豊楽等を祈る。
- 1月16日 - 18日 上宫王院修正会 梦殿の十一面観音への悔过法要。国家安泰を祈る。
- 1月26日 金堂壁画焼损自粛法要
- 2月1日 - 3日 西円堂修二会 弘长元年(1261)以来続く伝统行事。薬师如来座像に対し「薬师悔过」を行なう。
- 2月3日 追傩式(鬼追い式)节分の行事。西円堂に黒鬼、青鬼、赤鬼が现れ、松明を投げ、毘沙门天が现れて鬼を追う。
- 2月5日 三蔵会 玄奘三蔵を讃える法要。古くからあったが、明治に中断し、昭和58年、复活した。
- 2月15日 涅盘会 大涅盘図を悬け、釈尊の遗徳を讃える。
- 2月21日 圣徳太子御忌・慧慈忌
- 2月22日 太子道をたずねる集い(矶长ルート)
- 3月2日 道诠忌
- 3月7日 推古天皇御忌
- 3月8日 良谦忌
- 3月17日 定朝忌
- 3月22日 - 24日 お会式 圣徳太子の命日にその遗徳をたたえる法要。例年は圣霊院で行なわれるが、10年に一度、大讲堂で「大会式」が行なわれる。独特の供物が捧げられる。雅楽の流れる中、寺僧たちが训迦陀(くんかだ)と呼ばれる仏の徳をたたえる声明を唱え、太子の徳を讃叹する。
- 4月4日 仏生会 釈尊の诞生を祝う。食堂に釈迦诞生仏を安置し、甘茶をそそぐ。いわゆる「花祭り」。
- 4月9日 用明天皇御忌
- 4月11日 梦殿本尊开扉法要
- 4月中旬 法隆寺文化讲演会
- 5月16日 夏安居开白法要
- 5月16日~8月15日 夏安居 西室で90日间、圣徳太子の「三経义疏」の讲义を行う。
- 7月7日 弁天会
- 7月24日 东院地蔵会
- 7月26日 - 29日 法隆寺夏季大学
- 8月14日 - 15日 孟兰盆会
- 8月15日 夏安居结愿法要
- 8月24日 阏伽井坊地蔵会
- 9月2日 覚胜忌
- 9月23日 彼岸会
- 10月2日 行信忌
- 10月8日 西円堂奉纳镜奉纳大般若経転読法要
- 10月22日 - 11月23日 梦殿本尊秋季特别开扉
- 11月3日 崇峻天皇御忌・山背大兄王御忌、藤ノ木古坟参拝
- 11月3日 秋季 法隆寺文化讲演会
- 11月13日 慈恩会 法相宗の高祖・慈恩大师基(窥基)のための法会。一时途絶えていたが昭和53年复兴。
- 11月15日 胜鬘会
- 11月22日 太子道をたずねる集い(小垦田ルート)
- 12月8日 お身拭い
- 12月21日 间人皇后御忌
[编集] ギャラリー
[编集] アクセス
- JR法隆寺駅下车。徒歩で20分。または奈良交通バスで、法隆寺駅バス停→法隆寺门前バス停→徒歩1分で法隆寺南大门
- JR王寺駅下车。奈良交通バスで王寺駅北口→法隆寺前バス停徒歩3分
- 近鉄筒井駅下车。奈良交通バスで筒井駅バス停→法隆寺前バス停徒歩3分