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Daicing gurun(満州语)
大清(中国语)
1636年 - 1912年
国旗 国章
国旗(1862年-1889年) 国旗(1889年以降)
国歌 : 巩金瓯
清の位置
公用语 汉语満州语モンゴル语
首都 盛京(1636年-1644年)
北京(1644年-1912年)
皇帝
1616年 - 1626年 ヌルハチ(初代)
1908年 - 1912年 宣统帝(最后)
面积
11,203,696km²
人口
1776年 311,500,000人
1898年 319,720,000人
変迁
后金成立 1616年
后金から清へ 1636年
革命により灭亡 1912年2月12日
中国の歴史
中国の歴史
元谋蓝田北京原人
神话伝説三皇五帝
黄河长江文明
西周
东周 春秋
戦国
前汉
后汉
三国
西晋
东晋 十六国
南北朝 北魏
西魏 东魏
北周 北斉
五代十国
北宋 西夏
南宋
北元
后金  
満州 中华民国
 
中华人民共和国 中华民国台湾

(しん)は、清朝(しんちょう)ともいい、1636年満州において建国され、1644年から1912年まで中国を支配した最后の统一王朝。首都は盛京渖阳)、后に北京

満洲族爱新覚罗氏(アイシン・ギョロ氏)が立てた王朝で、満洲语ダイチン・グルン(Daicing gurun, 大清国)といい、中国语では大清(ダーチン、ピン音 Dàqīng)と号した。

目次

[编集] 国号について

诸説ある。 汉民族女真族によって南方に追われたことがあったため、明に「后金」という国号を警戒されることを恐れて、金と同音异字の「清」としたという説。 五行説にもとづくという説。明が「火徳」であることから、それにかわる「水徳」をあらわす「」と、『周礼』で(満洲は中国の东北部にあたる)を象徴する色とされる「」を组み合わせ、中原进出の意味を込めたというもの[1]

また、「しん」という読み方が、北京官话と异なることは长崎や明の遗民を通じて伝えられていたものの、そのことは知识人らの残した文书などにみられる程度である。

ラテン文字転写としてウェード式では清を「Ch'ing」と缀る。1958年のピンイン制定后は「Qing」と缀る。

[编集] 歴史

[编集] 清の勃兴

17世纪初头にの支配下で、満洲に住む女真族の统一を进めたヌルハチ(太祖)が、1616年に明から独立して建国した后金が清の前身である。その子のホンタイジ(太宗)は山海関以北の明の领土と内モンゴルを征服し、1636年に女真族、モンゴル人汉人の代表が渖阳に集まり大会议を开き、そこでの末裔であるモンゴルリンダン・ハーンの遗子から元の玉玺(后に作られた伪物である可能性が高いが)を譲られ、大清皇帝として即位するとともに、女真の民族名を満洲に改めた。

[编集] 清の中国支配

顺治帝のとき、李自成の乱によって北京が攻略されて明が灭んだ。清は明の遗臣で山海関の守将であった呉三桂の要请に応じ、万里の长城を越えて李自成を破った。こうして1644年に清は首都を北京に迁し、中国支配を开始した(「清の入関」)。しかし、中国南部には明の残党势力(南明)が兴り、とくに郑成功台湾に拠って顽强な抵抗を缲り広げた。清は、はじめ摂政王ドルゴン(ヌルハチの子)によって、のち成长した顺治帝の亲政によって、中国南部を平定し明の制度を取り入れて国制を整备した。

异民族である満州族の支配を汉民族が比较的容易に受け入れた背景には、明の王室を武力によって取って替わったのではなく、明を灭ぼした李自成を逆贼として讨伐し、自杀に追いやられた崇祯帝の陵墓を整备するなど、あくまで明の后を継いだことを前面に出していた事が考えられる。

[编集] 清の最盛期

顺治帝に続く、康熙帝雍正帝干隆帝の三代に清は最盛期を迎えた。

康熙帝は、即位后に起こった三藩の乱を镇圧し、郑氏の降伏を受け入れて台湾を并合して、清の中国支配を最终的に确立させた。対外的にはロシアネルチンスク条约を结んで东北地方の国境を确定させ、外モンゴルチベットを服属させた。

18世纪の大清

また、このころ东トルキスタンを根拠地としてオイラト系モンゴルのジュンガル部が勃兴していたが、康熙帝は外モンゴルに侵入したジュンガル部のガルダンを破った。のち干隆帝はジュンガル部を灭ぼして东トルキスタンを支配下においた。これによって黒竜江(アムール川)から东トルキスタン新疆)、チベットに及ぶ现代の中国の领土がほぼ确定した。

こうして少数の満洲族が圧倒的に多い汉族をはじめとする多民族と広大な领土を支配することとなった清は、中国王朝の中でも特有の制度を筑いた。藩部と呼ばれた内外モンゴル・东トルキスタン・チベットでは土着の支配者が取り立てられて间接统治がひかれ、理藩院に管辖された。満洲族は八旗に编成され、军事力を担った。また、皇帝が行幸で直辖する地域を访れる际には汉民族の支配者として、藩部の支配地域に行く际にはゲルに寝泊りをしモンゴル服を着用するなど、ハーンとして振舞うことで関系を维持した。重要な官职には汉族と同数の満洲族が采用されてバランスを取った。雍正帝の时代には皇帝直属の最高谘问机関军机処が置かれ、皇帝独裁の完成をみた。

中国が繁栄を极めたこの时代には文化事业も盛んで、特に康熙帝の康熙字典、雍正帝の古今図书集成、干隆帝の四库全书の编纂は名高い。一方で満洲族の髪型である辫髪を汉族にも强制し、文字の狱や禁书の制定を缲り返して异民族支配に反抗する人々を弾圧し、凌遅刑と呼ばれる凄惨な処刑を清が灭亡する20世纪初头まで行い、その刑で処刑された人肉は一般家庭などで薬として食されていた。(この凌遅刑を撮影した写真が现存している)。

しかし、干隆帝の60年に及ぶ治世が终わりに近づくと、干隆帝の奢侈と十度に及ぶ大远征の结果残された财政赤字が拡大し、官僚の腐败も进んで清の繁栄にも阴りが见えはじめた。干隆帝、嘉庆帝の二帝に仕えた军机大臣和珅は、清朝で最も堕落した官僚の一人であり、干隆帝の崩御后、新政を行おうとする嘉庆帝により自杀に追い込まれた。

[编集] ヨーロッパ列强の进出と内乱

19世纪の中国は、清の支配が衰え、繁栄が翳った时代である。清朝は、大规模な社会动乱、経済停滞、食粮の供给を逼迫させる人口の爆発的増加などに苦しんでいた。これらの理由に関しては様々な説明がなされるが、基本的な见解は、清は、この世纪の间ずっと、时代遅れの政府、官僚组织、経済では対処しきれない国内问题と自然灾害に直面したということである。

19世纪の中国にとっての主要な问题の一つはどのようにして外国と付き合うかということであった。それ以前は、中国は东アジアにおいて覇権を握っており、中华思想により、中国の皇帝が『天下』を支配し、册封体制の下で近隣诸国を统率するものと考えていた。しかし、18世纪后半になると、ヨーロッパ诸国が世界に进出し、産业革命と海运业により経済を発展させていった。イギリス商人は18世纪末にヨーロッパの対中国贸易竞争に胜ち残って、中国の开港地広州贸易を推进した。

1793年、イギリスは、広州一港に限られていた贸易の改善を交渉するため、ジョージ3世が干隆帝80歳を祝う使节団としてジョージ・マカートニーを派遣した。使节団は最新の工业制品や芸术品を皇帝に献上したが、清はヨーロッパの工业制品は必要とせず、ジョージ3世は自由に皇帝に敬意を表してよいという返答を得たのみであった。これはイギリス政府の気分を深く害することとなった。

この清の対応の结果、イギリスと清の贸易では、清の商人はでの支払いのみを认めることとなった。当时のイギリスは、茶、陶磁器、绢を清から大量に输入していたが、これらの代偿として中国に输出する商品を欠いていたのである。これに対し、イギリスはアメリカ独立戦争の戦费调达や産业革命の资本蓄积のため、银の国外流出を抑制する必要があり、インドの植民地で栽培したアヘンを中国に输出することで三角贸易を成立させた。清は1796年にアヘンの输入を禁止していたが、アヘン贸易は次第に拡大し、中国社会でのアヘンの蔓延は清朝政府にとって无视できないほどになった。このため、1839年林则徐钦差大臣に任命してアヘン贸易の取り缔まりを强化した。

林则徐はイギリス商人らのアヘンを没収して処分する强行策を取ったが、かねて自由贸易を望んでいたイギリス政府はこの机会に武力で开港させる决意を固めて、翌1840年アヘン戦争を起こした。强力な近代兵器をもつイギリス军に大败した清は、1842年イギリスと南京条约(およびそれに付随する虎门寨追加条约、五口通商章程)を缔结した。主な内容は、香港の割譲や上海ら五港の开港、领事裁判権の承认関税自主権の丧失、清がイギリス以外の国と缔结した条约の内容がイギリスに结んだ条约の内容よりも有利ならば、イギリスに対してもその内容を与えることとする片务的最恵国待遇の承认であった(その后、1844年フランス黄埔条约を、アメリカ望厦条约を缔结した)。

対中国贸易はこの后も伸び悩んだので、イギリスは1856年清の官宪がイギリス船アロー号の水夫を逮捕したのを口実に、1857年アロー戦争を起こした。イギリスは、宣教师が逮捕斩首にあった事を口実として出兵したフランスと共に広州・天津を制圧し、1858年に公使の北京驻在・キリスト教布教の承认・内地河川の商船の航行の承认・英仏に対する赔偿金・アヘンの输入公认などを认めさせる天津条约を缔结した。その后北京を制圧し、天津ら十一港の开港・イギリスに対し九竜半岛の割譲・中国人の海外への渡航许可を清に认めさせる北京条约を结んだ(1860年)。これにより外国商品の中国流入が进んだ。また、このときロシアに沿海州を割譲した。

この戦争と同时期には、国内でもキリスト教の信仰を纽帯とした组织太平天国による太平天国の乱1851年 - 1864年)、捻军の反乱(1853年 - 1868年)、ムスリム回族)によるパンゼーの乱1856年 - 1873年)や 回民蜂起(1862年 - 1877年)などが起こり、清の支配は危机に濒した。太平天国の乱の末、即位した同治帝の母西太后が政権を握ると、曾国藩李鸿章ら太平天国の镇圧に活跃した汉人官僚が力を得て、王朝の根干の制度を维持したまま欧州の技术を导入する洋务运动を开始するに至った。

1881年にはロシアとの间で不平等なイリ条约を缔结し、イリ地方をロシアに割譲することになった。

[编集] 半植民地化・灭亡

1884年インドシナ半岛植民地化を进めるフランスに対しベトナム宗主権を主张して清仏戦争(- 1885年)を起こすが、これによって册封国ベトナムを失い、アジアの盟主の地位が激しく揺らいだ。続く1894年朝鲜东学党の乱(甲午农民戦争)が起こり清が出兵すると、朝鲜进出を伺う日本も対抗して出兵して日清戦争(- 1895年)に発展したが、清の败北に终わり、下関条约によって台湾割譲と朝鲜が自主国であることを确认させられ、朝鲜に対する影响力も失った。

「眠れる狮子」と畏れられた清が、同じアジア人国家の日本に败北する様子を见た欧州列强は、1896年から1898年にかけて势力分割を行い、満洲からモンゴルトルキスタンロシア长江流域をイギリス山东省ドイツ福建省日本、华南をフランスが势力圏とした。同じく、イギリスは香港九龙半岛威海卫、フランスが広州湾、ドイツが青岛胶州湾租借地)、ロシアが旅顺大连租借地として、それぞれ要塞を筑いて东アジアの拠点とした。アメリカ南北戦争による国内の混乱から出遅れたため、これらの势力圏は全て平等に开かれるべきだとして、门戸开放宣言を発した。

中国と书かれたパイが、列强により分割されている风刺画。人物は前列の左からそれぞれ、イギリス・ドイツ・ロシア・フランス・日本を表し、后列の手を挙げている人物は、清朝を示している。

これに対し康有为梁啓超ら若い知识人が日本の明治维新にならって清も立宪君主制を取り国政の本格的な近代化を目指す変法自强运动を唱えはじめた。彼ら変法派は光绪帝と结んで1898年一时的に政権を夺取することに成功する(戊戌の変法)が、西太后率いる保守派の反撃にあって打倒された(戊戌の政変)。その后、西太后爱新覚罗载儁(保庆帝)を皇帝として拥立するも、保庆帝の父が义和団の指导者であるため强い反発をうけ、3日で廃された。

1899年、反西洋・反キリスト教を掲げる义和団が蜂起し、「扶清灭洋」をスローガンにかかげて外国人を袭いつつ北京に进出した。翌1900年西太后はこれに乗せられて列强に宣戦布告したが、八カ国连合军に北京を占领され、外国军队の北京进驻を认める北京议定书を结んで屈服した。こうして中国の半植民地化はますます进んだ。

20世纪に入ると、日露戦争1904年 - 1905年)の影响もあって清朝政府はついに近代化改革に踏み切り、科挙を廃止し、六部を解体再编し、宪法発布・国会开设を约束し、军机処を廃止して内阁を置いた。しかし、清は求心力を失いつつあり、孙文らの革命势力が次第に清打倒活动を広げていた。1911年武昌での军乱をきっかけに辛亥革命が起こり、清は完全な内部崩壊を迎えた。

1912年1月1日南京中华民国が树立した。北京の最后の皇帝溥仪(宣统帝)は2月12日、正式に退位し、ここに清は完全に灭亡した。

[编集] 政治

[编集] 官制

清初期、康熙帝の治世までは未だ部族合议制的な制度が残り、完全な集権体制の皇帝というわけではなかった。その象徴が议政王大臣会议(ぎせいおうだいじんかいぎ)と呼ばれる制度である。この制度は旗王(八旗の长)や皇族・宗族の有力者など実力者が选ばれて会议を行い、政治の方针を决めるものである。この中では皇帝も旗王の一人であり、无限の権力が振るえるわけではない。

それと平行して置かれていたものが明から引き継いだ内阁制度である。ホンタイジ时代には内三院と呼ばれており、行政机関の一つに过ぎず、议政王大臣会议の决定に従うものであった。しかし汉文化を爱する顺治帝により、内阁に名を改められて最高行政机関となり、议政王大臣会议は军事を管辖するようになった。

その后、雍正帝は议政王大臣会议に権力を制限される事を嫌って、军事・行政の両方を総揽する皇帝の谘问机関である军机処を创设して完全なる皇帝独裁体制を整えた。军机処に権限を夺われた议政王大臣会议は1792年に廃止される。

中央には军机処の他に六部内务府(宫廷诸事)・宗人府(皇族・宗族の事务)・理藩院(藩部の统括。藩部については后述)・都察院(官僚の监察)・通政使司(上奏分の検閲)・大理寺(最高裁判所)がある。

地方は皇帝直属である藩部と満洲族の故地である満洲とに分かれている。

藩部はホンタイジが最初に内モンゴルのチャハル部を服属させた时に蒙古衙门(もうこがもん)を置いてモンゴルの统治に当たらせた事に始まる。その后、蒙古衙门は理藩院と改名し、外モンゴル・新疆チベット青海を服属させると藩部と総称するようになった。基本的に藩部には土民の旧制を维持し、行政官は当地の実力者をあてて半自治を行わせ、その上から理藩院が管辖するという形を取っている。

省はほぼ现在の中华人民共和国と同じものが置かれている。直隷(河北省)・江苏省安徽省山西省山东省河南省陕西省甘粛省浙江省江西省湖北省湖南省四川省福建省広东省・広西省(広西チワン族自治区)・云南省贵州省の18である。省の下に府・州・県がある。府・州・県の长官はそれぞれ知府・知州・知県と呼ぶ。省の长官は巡抚と呼ばれ、またそれとは别に复数の省を统括する総督があり、双方が州の民政・军事を司っていた。

満洲族の故地である満洲地方については省は置かずに、それぞれ黒竜江将军(黒竜江省)・吉林将军(吉林省)・盛京将军(辽宁省)らに军政を行わせて満洲族の军事力を弱体化させないようにした。またこの地に対する汉民族の移住を禁止して、満洲族が汉民族に同化してしまわないようにした。

[编集] 満汉偶数官制

清の政治は圧倒的多数である汉民族を少数派である満洲族がどうやって统治していくかに気を配っていた。その政策の主眼となるものが満汉偶数官制と呼ばれるものである。中央の诸官のポストをそれぞれ満洲族・汉民族が同数になるように配置していく制度である。

清の官吏のポストはそれぞれ満官缺(満洲族だけが就ける。以下同様)・蒙官缺(モンゴル人)・汉军官缺(八旗に所属する汉人)・汉官缺(八旗に所属しない汉人)と言う风に分けられていた。地方の巡抚・総督は満汉半数であり、その下の知府以下は汉人が多く登用された。

[编集] 兵制

兵制は満洲族の军制である八旗制度を采用していた。それを补完する形で緑営がある。緑営は明の兵制を解体した后に再编成したもので、各地に分散して配置された。详しくは八旗の项を参照。しかし干隆以降は长い平和に八旗は堕落し、物の役には立たなくなっていた。

その后白莲教徒の乱苗族の乱など国内での反乱が多発するようになると、郷勇という义勇兵が八旗に代わって活跃する。反乱镇圧后には郷勇は郷里へと帰るように命ぜられたが、中には流民が食うために兵士になったものも多く、それらの兵士达は緑営に编入されるか、そうでない者は盗贼化することもあった。

その后の太平天国の乱に际しては湘军淮军といった有力者による半私兵集団が镇圧に当たり、军阀化が进むようになる。これ以降の政府では曽国藩・李鸿章といった军阀の长が権力を握るようになり、军机処を初めとした中央の官僚の権限は有名无実化した。

[编集] 経済

清の社会は基本的に明を引き継いでおり明清帝国と呼ばれる事もある。

明代后期から出现した郷绅层による地方支配、外国産のの流通による経済の発达、东アジア交易网の隆盛などが明后期から清前期の特徴として挙げられる。

[编集] 农业の発展と人口爆発

北宋代に1亿を超えたと言われる人口は増减を缲り返し、康熙帝期の1700年に1亿5千万、干隆帝期の1770年から80年にかけて2亿8千万、19世纪前半に4亿を突破した(数字は全て推定)。

この人口の爆発的増加の最大の理由は新大陆原産の作物トウモロコシサツマイモ落花生などが导入された事にある。これらは水がそれほど豊富でなくとも育つ作物であり、それまで灌漑が不可能なるがゆえに见放されていた山地に汉民族が进出できるようになった。溢れる人口は领内だけでは収めきれず、満洲・モンゴル・青海と言った本来汉民族の居住地ではない所にも进出し、牧草地や山地を农地に変えていった。更に陆地だけでも収まりきらず、明代から出现していた华人が激増する事になる。

これらの汉民族の进出は多くの场合、现地の民族との摩擦を引き起こし、时に现地の民族の経済的没落を招く事になった。これに不満を持ったモンゴル族・苗族などは何度か反乱を起こすが、数の圧力には逆らえず次第に势力を减退させていった。また郑一族の降伏により版図に入った台湾にも数多くが进出し、开発が进む一方で原住民达は山间部に追いやられていった。その中で清の故地である満洲は満洲族の保护の意味から汉民族の移住を禁止していたが、19世纪末になって、この地方にロシアの圧力がかかってくるようになると领土権の保持と防卫のために禁を删除し、この地も汉民族の农地が広がることになる。

[编集] 税制

清初には税制も明から一条鞭法を引き継いでいたが地丁银制に切り替えた。これはそれまでが人头税(人丁)・土地税(地丁)の二本立てであった税を土地税一本にするものである。それまでは郷绅势力には免税特権が与えられており、また人头税逃れのために戸籍に登録しようとしない者も多く、これらの対策のために完全に土地による税制に切り替えたのである。この制度が行われた后には隠す必要が无くなった人々が戸籍に登録されるようになり、前述の人口増加はこれが原因の一端と见られている。それと共に戸籍制度もそれまでの里甲制から変えて、新しく作り直した。

[编集] 商业

明代から引き続いて全国的に手工业が大いに盛んであり、绢织物绵织物に加えての加工贩売が盛んとなり、増大する人口と农地に必要な农具が大量に作られていた。だが、清朝初期には海禁政策の影响で海外からの银の流入が止まって、极端なデフレ状态に陥って「银荒谷贱」と呼ばれて民衆は勿论、有力者の中にも破绽するものが相次いだ。この倾向は郑氏政権の崩壊によって海禁政策が缓和されるとともに落ち着くようになる。

そして商业も非常に活発となり、それに伴い商业システムの発展が随所に见られる。典舗・当舗と呼ばれる质屋は贷付・预金业を行い、独自に银と兑换が出来る银票を発行した。また为替业务を行う票号という机関もあった。これらの中心となっていたのが山西商人(山西省出身)・新安商人(安徽省出身)と呼ばれる商人の集団で、山西商人などは豊富な资金を背景に皇族とも密接にかかわり、政府资金の运用にも関わっていたと言われる。

[编集] 文化

顺治帝は汉文化に倾倒したことで有名であり、康熙・雍正・干隆の三世はいずれも类稀な文人でもある。しかしその事は文化の保护に繋がらず、逆に弾圧に繋がった。异民族支配による文人达の反抗を抑えるために文字の狱と呼ばれる厳しい弾圧を行い、几人もの文人が死罪になっている。

上记三世の皇帝は康熙期の『康熙字典』、干隆期の『四库全书』などの文化事业を行ったが、それは同时に政府の近くに文人达を集める事による言论统制の意味があった。

[编集] 思想

厳しい思想统制が行われる中で、考证学と呼ばれる新しい分野が生まれた。

これは圣人の教えを精釈して、忠実な思想を受け継ごうというものである。具体的にはそれまでの主観的に四书五経を読み解いている(と考えられる)朱子学阳明学を批判して、过去の経书に遡って解釈を行うこととなる。そして最も重视されたのが代のものである。

考证学では全ての経书に细密な考证が加えられ、その结果、孔子の子孙の家の壁から现れたと言う『古文尚书』が后に作られた伪作であると判明した。このようにそれまで絶対视されてきた経书にも疑问が投げかけられ、儒教自体が相対化されることになる。

また史书・地理志にも考证学の技法が用いられて、それらの误脱を见极めて正しい事柄を见极めようとした。この分野では『二十二史箚记』の着者赵翼が有名である。

しかしこの分野は政府による文字の狱の中で次第に政府を刺激するような物は避けられるようになった。确かに研究の上では非常に大きな成果をもたらしたが、技术のための技术へとなってしまい、纯粋な学问となってしまったとの批判がある。日本では学问が浮世离れしていてもごく普通に感じるかもしれないが、中国では学问とは何よりも政治のためのものであって、现実世界に寄与しない学问は无意味であるとの考え方が强い。これらの批判を受けた学者达は『春秋公羊伝』を経典とした公羊学を行うようになる。

[编集] 文学

清代に入り、それまでの中国的な文人像が相対化されたことでそれまではこれをしなければ文人にあらずと思われていた汉诗の分野もまた相対化されて、必ずしも必须のものではなくなった。もちろん多数の作者により、多数の作品が作られており、全体的には高いレベルにあったが、しかし飞びぬけた天才・名作は无い。

一方、明代から引き継いで小説戯曲の大衆文化は盛んであり、小説では『聊斎志异』『红楼梦』、戯曲では『长生殿伝奇』『桃花扇伝奇』などが作られている。それまでは俗と考えられていたこの分野もこの时代になるとそうは捉えられなくなり、官僚层の间でも小説を评価する动きが出てきた。

现代中国で普通话と呼ばれる北京语が成立したのも清代である。本来北京周辺で话されていた言叶と东北地方の语汇が混り合ったものとなったため、北京语は他の方言とは异なる特徴を持つ言叶となった。

[编集] 美术

絵画の分野ではイエズス会ジュゼッペ・カスティリオーネによってもたらされた远近法を取り入れた新しい絵画の诞生が见られる。また明初の石涛八大山人といった明の遗民たちは清に対する抵抗を絵に描き表した。

陶磁器の分野では景徳镇は陶磁器生産の大工场としての地位を保っており、明代から引き継いで赤絵染付などの生産が行われた。しかし干隆以降はこれらは急速に下火になり、质的にも大きく劣ると评価される。

渖阳にある清の旧王宫は北京と渖阳の明・清王朝皇宫として世界遗産に登録されている。

[编集] 国际関系

[编集] 前期

清朝はすでに満洲时代にモンゴルの诸部族を并合し、朝鲜に朝贡させており、清军が华南に进むにつれて琉球マカオポルトガル人、ベトナム(安南)が朝贡してきた。また呉三桂が南明の永暦帝を追って云南からビルマに入った。しかし三藩の乱台湾郑氏政権の抵抗のため、海上からの朝贡は郑氏が投降するまで本格的に始まらなかった。その后、広州などを开放して东南アジア诸国や英仏などの交易を许した。特にタイアユタヤ王朝は清朝の要请を受けて、タイ米を広东や福建に输出した。清朝は朝と违い、厳格な海禁政策は取らなかった。日本江戸幕府は朝贡してこなかったので外交関系はなかったが、中国商船の长崎贸易は许されていた。欧州との関系についていえば、マカオ経由で入国したイエズス会员らカトリック宣教师が明末以来引き続き北京に滞在し、主に科学技术や芸术技能をもって朝廷に仕えていた。

北辺ではシベリアに进出したロシア満州北部に迫り、ネルチンスク条约キャフタ条约によって中露国境が定められた。

[编集] 后期

19世纪に入ると産业革命が进む欧米と中国との力関系が逆転し、特にナポレオン戦争后の世界の覇権を握ったイギリスを中心として中国侵略が开始され、后発のロシアや日本もこれに加わった。その结果、アヘン戦争アロー号戦争(第2次アヘン戦争)、清仏戦争(ベトナム宗主権を巡る)、日清戦争(朝鲜宗主権を巡る)、义和団の乱が起こり、清朝はイギリスに香港岛を割譲したのを始め九龙・新界租借地、威海卫租借地、ロシアに旅顺大连租借地(后に日本が譲渡され関东州租借地)や东清鉄道利権、ドイツに胶州湾租借地、フランスに広州湾租借地を与えた他、日本に台湾を割譲した。また上海にも共同租界やフランス租界が设置され、列强の中国侵略の足场となった。

[编集] 清の皇帝

[编集] 清の皇帝の姓

皇帝の姓を爱新覚罗(あいしんかくら)という。本来の満洲语ではAisin gioro(アイシン・ギョロ)と発音し、 アイシンは「金」、ギョロは「氏」ということで、即ち「金氏」を意味する。

[编集] 清の元号

清は、一世一元の制踰年改元制を明から引き継いだので、元号は各皇帝につき一つずつである(在位中に改めて大清皇帝に即位し改元したホンタイジは例外)。顺治帝以降の入関后の各皇帝は庙号谥号をもって呼ばず、その皇帝の时代の元号に「帝」をつけて呼ぶことが惯例になっている。

清朝皇帝
庙号 谥号 姓名 在位时期 年号 陵墓 备考
太祖 承天広运圣徳神功肇纪立极仁孝睿武端毅钦安弘文定业高皇帝 (追尊) 爱新覚罗努尔哈赤
アイシンギョロ・ヌルハチ
1616年-1626年 天命 福陵
太宗 応天兴国弘徳彰武寛温仁圣睿孝敬敏昭定隆道顕功文皇帝 爱新覚罗皇太极
アイシンギョロ・ホンタイジ
1627年-1643年 天聡[2]
崇徳
昭陵 ヌルハチの子
世祖 体天隆运定统建极英睿钦文顕武大徳弘功至仁纯孝章皇帝 爱新覚罗福临 1644年-1661年 顺治 孝陵 ホンタイジの子
圣祖 合天弘运文武睿哲恭倹寛裕孝敬诚信功徳大成仁皇帝 爱新覚罗玄烨 1662年-1722年 康熙 景陵 顺治帝の子
世宗 敬天昌运建中表正文武英明寛仁信毅睿圣大孝至诚宪皇帝 爱新覚罗胤禛 1723年-1735年 雍正 泰陵 康熙帝の子
高宗 法天隆运至诚先覚体元立极敷文奋武钦明孝慈神圣纯皇帝 爱新覚罗弘暦 1736年-1795年 干隆 裕陵 雍正帝の子
仁宗 受天兴运敷化绥猷崇文経武孝恭勤倹端敏英哲睿皇帝 爱新覚罗颙琰 1796年-1820年 嘉庆