熊本城

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熊本城
熊本県
本丸
本丸
通称 银杏城
城郭构造 梯郭式平山城
天守构造 连结式望楼型(非现存・1600年筑)
外観复元(RC造・1960年再)
筑城主 出田秀信
筑城年 1469 - 87年顷
主な改修者 加藤清正
主な城主 加藤氏、细川氏
廃城年 1874年
遗构 现存橹・门・塀、石垣、堀
指定文化财 国の重要文化财:橹11栋、门1栋、塀1栋
国の特别史迹:熊本城迹
再建造物 外観复元:大小天守・平橹・马具橹
木造复元:西大手门・数奇屋丸二阶広间・南大手门・西出丸戌亥橹・未申橹・元太鼓橹・饭田丸五阶橹・本丸御殿大広间
位置 北纬32度48分21.7秒
东経130度42分21.23秒
  

熊本城(くまもとじょう)は、熊本県熊本市にある平山城である。日本三名城の一つとされ、特别史迹。别名、银杏城(ぎんなんじょう)。

目次

[编集] 立地

南方に向って张り出した丘陵の広い尖端部とその裾を占めた平山城であり、もとは茶臼山と称した高所を中心とし、旧千叶城迹および古城の地域等にわたっている。现在の、熊本県熊本市本丸、二の丸、宫内、古城、古京町、千叶城町に当たる。

[编集] 歴史

[编集] 千叶城・隈本城时代

文明年间(1469年-1487年)に肥后守护菊池氏の一族・出田秀信が千叶城(ちばじょう、现在の千叶城町)を筑いたのが始まりである。

その后、出田氏の力が衰え、大永・享禄年间(1521年 - 1531年)に菊池氏は代わりに托麻・饱田・山本・玉名4郡に所领を持つ鹿子木亲员(寂心)に隈本城(くまもとじょう、现在の古城町)を筑かせて入れた。亲员は藤崎八旛宫の迁宫を行い、1529年(享禄2年)には后奈良天皇の伦旨、1542年(天文11年)には勅额の下赐を得ている。1550年(天文19年)、豊后守护大友义鉴が家臣の谋反により杀されると、义鉴の弟で菊池氏を嗣ぎ、かつ义鉴と敌対していた守护菊池义武が隈本城に入り、鹿子木亲员の孙・镇有はこれを迎え入れた。しかし、义鉴の子・大友义镇により追われ、以后は大友氏に协力した城氏が居城とした。

1587年(天正15年)、豊臣秀吉の九州征伐に际し、隈本城主城久基は城を明け渡し筑后国に移った。新たに肥后の领主となり隈本城に入った佐々成政は、秀吉の指示に反して検地を强行し、肥后国衆一揆を引き起こす。1588年(天正16年)、成政は切腹を命じられ、加藤清正が肥后北半国19万5000石の领主となり隈本城に入った。

[编集] 熊本城时代

加藤清正は、1591年(天正19年)から千叶城・隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に城郭を筑きはじめる。松本城の美しさを基に筑城されたという。1600年(庆长5年)顷には天守が完成、関ヶ原の戦いの行赏で清正は肥后一国52万石の领主となる。1606年(庆长11年)には城の完成を祝い、翌年「隈本」を「熊本」と改めた。これが现在の熊本城である。1610年(庆长15年)から、通路によって南北に分断されていた本丸に通路をまたぐ形で本丸御殿の建筑が行われた。これにより天守に上がるには、本丸御殿下の地下通路を通らなければならないようになった。

1632年(寛永9年)、清正の子・加藤忠広の改易により豊前小仓城主だった细川忠利が肥后54万石の领主となり熊本城に入った。このとき忠利は天守に上り清正を祀る庙所がある本妙寺の方角に向かって遥拝したと伝えられる。忠利は城の长塀の南、坪井川を渡った所に花畑屋敷を造営し、以后歴代藩主はここを日常の居所とした。

[编集] 明治时代以降

宇土橹と天守群

幕末の熊本藩には学校党・実学党・敬神党の三つの势力があったが、维新后の1870年(明治3年)进歩的な実学党が政権を握り、「戦国の余物」「无用の赘物」であるとして熊本城の解体を新政府に愿い出た。これは诸藩の改革を促进したい新政府の意向を受けたもので、愿い出は闻き届けられた。しかし、作业开始当日になって解体の方针は冻结されることになった。藩知事细川护久の主导で进められた方针に対し、前藩知事で保守派の细川韶邦が不満であるなど、藩内に意见の相违があったためといわれる。代わりに、城内は天守を含めて一般に公开されることとなった。

廃藩置県后は、熊本镇台がおかれた。1876年(明治9年)の神风连の乱のときには反乱士族が镇台司令官种田政明などを袭い城内の炮兵営を制圧したが、1日で镇圧されている。

西南戦争では政府军の重要拠点であると同时に西郷军の重要攻略目标となる。西郷军の総攻撃2日前、1877年(明治10年)2月19日午前11时40分から午后3时まで原因不明の出火で大小天守など多くの建物(同时に30日间の米、城下の民家约千轩)を焼失した。田原坂の戦いを含む激しい攻防が行われたが、熊本城は司令官谷干城の指挥の下よく攻撃に耐え、ついに撃退に成功した。なお、この戦いでは武者返しが大いに役立ち、熊本城を甘く见ていた西郷军は、谁一人として城内に侵入することができなかったという。

1884年 城内に午炮台が设置され、空炮による报时业务が始まる(1941年廃止)。

1888年(明治21年)には、熊本镇台を母体とする陆军第6师団の司令部が天守台に置かれた。

1933年昭和8年)「熊本城」(种别:城郭 - 宇土橹、监物橹など计13栋)として旧・国宝保存法に基づく国宝(现行法の重要文化财に相当)に指定される[1]

1933年(昭和8年)「熊本城迹」として国の史迹に指定される。

1955年(昭和30年)「熊本城迹」として国の特别史迹に指定される。

1960年(昭和35年)の熊本国体开催と筑城350年を期に、熊本市は一般からの寄付も募り1亿8000万円の费用をかけ外観复元で大小天守を再建した。大天守の内部は熊本市立熊本博物馆の分馆として史料等の展示がされ、最上阶は展望スペースとなっている。

2007年平成19年)筑城400年に际して、本丸御殿をはじめ、西出丸の塀、戌亥橹、元太鼓橹、奉行丸の塀、未申橹、南大手门などの建造物を数年かけて复元。なお、未だ复元工事中、工事未着手の建物もいくつかある。

[编集] 构造

长塀と坪井川
饭田丸五阶橹(木造复元)

城郭の形式は、梯郭式平山城。広さ约98万平方メートル、周囲约5.3キロメートルある。南西の古城と北东の千叶城を取り込み、出丸としている。

南东を流れる白川を外堀に见立て、これに合流していた坪井川井芹川を切り离して内堀としているため城内にある水堀は饭田丸の西にある备前堀1つのみである。本丸は丘陵の东の最も高い部分に造り全面石垣积みとし、西へゆるやかに下る二の丸・三の丸は重点个所のみを石垣とし経费を抑えた。搦手口のある北は他の方面に比べ、内郭に近接しているので通用に弱点とされるが、断崖と空堀(现在は道路)に仕切られており突破は困难である。これに対し西は开けており、多少なりとも倾斜も缓い。そのため、西出丸・二の丸・三の丸で区画し防备を固めているが、城郭西端の先に独立した小丘として段山がある。兵力の関系で総构えを放弃した西南戦争ではこの段山を巡り激戦が缲り広げられた。

[编集] 石垣

清正は特に石垣造りを得意とし、熊本城では、始め缓やかな勾配のものが上部に行くにしたがって垂直に近くなる「武者返し」と呼ばれる形状の石垣を多用している。熊本城で使用されている武者返しは庆长の役の际に难攻不落と呼ばれ朝鲜に筑いた蔚山倭城に使用した筑城技术を元にしたものである。 上益城郡山都町(旧・矢部町)にある通润桥は、江戸时代末期にこの熊本城の武者返しの石垣をモデルに作られた。 江戸幕府の仮想敌であった萨摩藩に対する备えとして建造されているため、南侧が非常に坚固(その分北侧がかなり手薄)な构造になっている。この构造が西南戦争で萨摩军の包囲戦をしのぐ事ができた要因の1つとなっている。 熊本市役所前の石垣は、长さとしては日本最长である。

[编集] 天守

天守は、连结式望楼型、大天守は5重6阶地下1阶。「一の天守」とも呼ばれる。小天守は3重4阶地下1阶。「二の天守」とも呼ばれる。 大天守の2重目にあたる部分と4重にあたる部分のものは屋根ではなく厢とするので正确には3重6阶地下1阶の天守であるが、通用に5重天守として见られている。萩城天守と同じように天守台から少し张り出す「悬造り」で、张り出し部分には石落しが设けられていた。小天守の天守台沿いには、60センチメートル程の「忍び返し」という鉄串が刺してあり、外観复元されたものにも再现されている。

[编集]

建物は、漆喰壁に柿渋涂りの下见板张りの黒い外観が特徴的。天守以外の橹や门の屋根には反りが少なく破风には直线かむくりが付けられている。多重橹は全て望楼式である。

「三の天守」とも呼ばれる宇土橹は、3重5阶地下1阶で、五阶橹の中では最大の橹である。最上阶に外廻縁を持つ。破风はむくりを持ち、诸橹と同じ仕様で造られている。宇土城の天守を移筑したものと伝えられているが、清正の创建した初代天守ではないかという见方もある。

[编集] 遗构

宇土橹をはじめ监物橹(长冈図书预橹)、平橹、五间橹、北十八间橹、东十八间橹、源之进橹、四间橹、十四间橹、七间橹、田子橹の各橹、长塀(全长约242m)、不开门の13栋の遗构は现存し、それぞれ国の重要文化财に指定されている。

宇土橹
  • 平左卫门丸
    • 宇土橹(古外様橹、二阶橹を含む)
  • 东竹の丸
    • 田子橹
    • 七间橹
    • 十四间橹
    • 四间橹
    • 源之进橹
    • 东十八间橹
    • 北十八间橹
    • 五间橹
    • 平橹
    • 不开门
  • その他
    • 监物橹(监物台树木园)
    • 长塀(坪井川端)

现存する建物のほかに、饭田丸五阶橹・南大手门・未申橹・戌亥橹・西出丸长塀などが复元され、また、平成19年(2007年)の清正による筑城400周年にあたり、12月末に本丸御殿大広间の复元工事がほぼ完了し、2008年4月20日から一般に公开されている。他の多重橹等の复元も长期に计画されている。

[编集] 城下町

城下町は西南戦争における戦闘で焼失し、その迹には通用な市街地が形成されたため、现在では殆ど面影は残されていない。しかし、辛岛町から熊本駅までの一帯には城下町の町割りそのままに道路が走っているほか、呉服町、鱼屋町、古大工町绀屋町といったかつての职人町の地名が数多く残っている。

[编集] 雑学

「银杏城」という名の由来になっているのは、城内に植えられた银杏(いちょう)の木である。これは万一、笼城戦になった时の食料确保のため、筑城时に加藤清正がこの银杏を植えたという。もっともこの大银杏の木は雄木で実は生らないため、后世生まれた俗説と考えられる。また、清正は「この银杏の木が天守と同じ高さになった时にこの城で兵乱が起こるだろう。」とつぶやいたという言い伝えがある。明治时代、清正が植えた银杏の木は天守とほぼ同じ高さになっていたが、明治10年に西南戦争が起こり、熊本の城下が戦场となった。 また、清正は城内の畳床を食用になる里芋茎で作り、笼城戦に备えたとされる。

复元された昭君之间

本丸御殿の最深部には、中国の故事に出てくる王昭君の絵画(袄絵とも屏风絵ともいわれる)のある「昭君之间(しょうくんのま)」と呼ばれる部屋があった。この部屋には莺张りの廊下や外へと通じる隠し通路があったといい、藩主の居间として使われていたようだが、一説によると、豊臣家の有事に际し秀吉の子秀頼を密かに匿うために造られた部屋であるといわれている。“しょうくん”=“しょうぐん”(将军)の意とする説がある(当时は浊点を打たないので、仮名で书けば同一になる)。表面上は天下人の徳川家康に恭顺しながらも、秀吉への恩を忘れない清正の忠义を示しているのだという。 城の北东、立田山の中腹には清正が秀吉を祀った豊国庙迹がある。また、城の南西、花冈山の麓の妙解寺迹には细川家の霊庙がある。この二つを结ぶ直线上に天守が位置している。

江戸时代、长きに渡って熊本藩を治めたのは细川氏だった。しかし、西南戦争で天守が焼失する様を地元の人は「清正公(せいしょこ)さんの城が燃えている…」と悲しんだという。 また西南戦争の际、官军の守る熊本城を攻め落とすことができなかった西郷隆盛は「おいどんは官军に负けたとじゃなか。清正公に负けたとでごわす」と言い放ったという。

[编集] 観光

[编集] 交通アクセス

[编集] 熊本城筑城400年祭

熊本城筑城400年祭を参照

[编集] 城域一帯の施设

[编集] 脚注・出典

  1. ^ 国宝保存法における「国宝」(「旧国宝」)と文化财保护法における「重要文化财」とは同等のものである。

[编集] 関连项目

[编集] 外部リンク

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