龙窑
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龙窑(りゅうよう)は、主として中国の青磁をはじめとした陶磁器生産に用いられた斜面を利用した単室の窑である。いわゆる広义の登り窑のひとつの形态といえる。现在は、韩国、タイ、ベトナムなどでも见られる。
窑体は、全体として细长いソーセージ型をしており、烟を出しながら斜面を下る姿、もしくは火が薪によって登る姿が龙に似ていることからこの名称があり、形状にちなんだ别名として「ムカデ窑」とか「蛇窑」と呼ばれることもある。
龙窑は、その构造上山がちな场所につくられる。つまり立地条件として地下水の影响を受けずに制品を焼成、干燥させやすい、自然地形の斜面をそのまま利用して窑を筑くことができる、焼成のために用いる木材や制品をつくるための粘土が入手しやすい、农业用地として利用しにくい山地の有効な活用ができ、失败した场合の廃品の処分についても気兼ねがないという事情がある。扬子江流域に近い浙江省、江苏省、湖南省や华南地方の広东省、広西省の山がちな地域で良质な粘土が采取できる场所の近くに筑かれた。
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[编集] 龙窑の窑体构造
龙窑の窑体构造は、一番下の焚口のある窑头、本体部分の窑室、烟出しのある窑尾に区分される。窑头は丸くつくられて、中央よりやや下の部分に焚口が设けられている。さらにその下に窑の底面に密着して小さな通风孔が设けられ、火力を强くして薪などの燃料を十分に燃やすことができるよう工夫されている。窑室とは、素地の器を置く本体部分である。窑室の底には砂を敷いて、窑の底面を保护するとともに窑道具がやたらに动かないように固定した。唐の末期ころに匣鉢が出现し、窑室に素地を直接置けるように出入り口がつけられるようになった。窑の倾斜は8度から20度くらいであるが、汉代には、30度前后の倾斜をもつ窑が造られた。また、焼成に适した温度を维持するために窑の长さは长くて80mくらいまでが限度であり、50~60m以内のものがほとんどである。窑尾には、窑室内の温度を维持するため、ちいさい狭间孔だけが空けられて烟出し施设につながっている。烟突は基本的に不要であったが、后に烟突を设けるものも现れた。
[编集] 龙窑の歴史
[编集] 殷~三国时代
龙窑のもっとも古いものは、殷の时代にまでさかのぼる。江西省清江県呉城[1]で4基の龙窑が确认されている。そのうち比较的保存状态のよい6号窑は、殷の终末期の窑であり、长さ7.54mが残存しており、幅は1m前后、底面は1度54分の倾斜で、ほぼ平坦に近い。薪を横から入れるための投薪孔(鳞眼洞)が片方の侧面に9ヶ所设けられている。焚き口は、薪を入れてから适度に燃焼した时期を见计らって、土砖という一种のレンガのブロックでふさぐ。その后、焚き口に近い顺に投薪孔から薪を投げ込んでいくと考えられる。この窑では、印纹硬陶と呼ばれる土器と原始青磁[2]を焼いている。浙江省では、上虞市百官镇の2号窑が殷代の窑にあたる。全长5.1m、最も幅の広い部分が1.22m、窑床は、16度の倾斜を持っている。この窑では、印纹硬陶のみを焼いていたようである。
広东省博罗県园洲では、春秋时代早期と考えられる龙窑が発见されている。この窑は、窑床が20度の倾斜を持ち、全长が15m、幅2mくらいの规模をもつ。春秋戦国时代を通じてこの窑の周辺1万m²に陶磁器を焼いた窑迹が分布していることが判明しており、この窑迹群で焼かれたと推定されるヘラ记号を施した印纹硬陶や原始青磁が周辺の春秋戦国时代の墓からも副葬品として発见されている。扬子江の河口の南方、杭州湾の南岸にあたる浙江省绍兴県富盛长竹园でも戦国时代に属する龙窑が発见されている。窑头部分が、灌漑用水利施设工事の际に破壊され、本来は、4~6mあったと考えられるが、长さ3m分が残存していて検出された。窑壁は、20cm残存しており、天井部分は崩落して失われている。窑の底面は、16度で倾斜し、焼成による12cmの堆积が确认されている。窑道具はトチンなどが出土しているものの、基本的には、焚口の近くに素地の器を直接置いているため、生焼けであったり焼成の状况はよくない。
浙江省上虞県联江公社红光大队帐子山で発见された2基の龙窑は、后汉时代のもので前半部が破壊されていたがそのうち1号窑は、3m90cm、幅2m前后で残存していた。倾斜は下半分で28度であるが途中で21度に変わっている。窑の底面には粘土が涂られてその上には砂が二层に渡って敷かれていた。その下层は、热を受けて硬くなっていたが、上层は窑道具を支えるために柔らかな状态であった。窑壁は、30cm强~40cm强程度残存していた。窑の下半分の窑壁が分厚く壁面がいったん高热で溶けた后凝固している様子がうかがわれ、上のほうにいくにしたがって薄くなり、残存していた遗物も赤焼けでもろくなっている。このような残存している窑壁の立ち上がりや窑体内に残っている器や窑道具の大きさから、天井の高さは、110cmくらいであると推测される。 2号窑は、1号窑とほぼ规模、造りとも同じくらいで、窑床の倾斜は下半分で31度、上半分で14度の倾斜である。1号、2号とも窑道具はほぼ原位置を保って残されている。窑体内は、窑の倾斜が急になっていて、窑の内部は1250~1300度くらいになっていたと推定され、器の素地が生焼けにならないように窑道具で高く积み上げて窑诘めを行い、以前の窑に比べて格段に効率がよくなっている様子がうかがわれる。后述する近隣の三国时代の窑が长さ13mくらいであったことから考えて、窑の全长は10mくらいではないかと考えられている。
上虞県联江公社凌湖大队鞍山では、长さ13.32mの三国时代に当たる龙窑が発见されている。燃焼室は半円形でもっとも长い部分は80cmで、素地を焼く窑床よりも42cm低くなり、厚さ11cmの障壁で仕切られている。窑头が失われているため、焚き口と通気孔については状况がわからないが、长方形の作业场とおもわれる粘土敷きの広场遗构が确认されている。窑室部分、すなわち焼成室は、底面は地山に一层の砂を敷いており、下半分は13度、上半分は23度に倾斜し、长さは10.29m、幅は2.1~2.4mであった。窑壁は30~37cm残存していた。窑室と窑尾を区分する场所には、障壁が高さ10cm残存しており、そこから57~80cmの位置に5本の分焔柱が発见された。高さ15cmで、被热の仕方から上に壁はなかったと推定される。 分焔柱の后ろには粘土の块がおかれていた。おそらく火の势いを调节するためであったと思われる。窑道具は窑室中央部分に集中しており、窑室の后ろ部分、すなわち窑の上の窑尾付近には窑诘めがほとんどなされなかったとおもわれる。 三国时代までの龙窑は、10mくらいのせまい窑室で、窑体の幅を広くし急な倾斜を用いることによって高温を维持して焼成を行う小规模な窑であった。
[编集] 龙窑の规模拡大(东晋~南宋)
晋の时代の龙窑は、联江公社红光大队帐子山の后汉时代の窑の西方で発见されている。窑室の后半部分と窑尾の烟出し部分の长さ3.27mが确认された。幅は2.4mで、窑室部分は、2.5m残存しており、窑床の倾斜は10度であった。窑の底面には砂が敷かれて、窑道具が规则正しく并んでいたと思われる痕迹がみられた。おそらく窑の天井には投薪孔が设けられ、均质に素地が焼けるようになっていたと思われる。南朝时代にさらに规模が大きくなっていったと思われるが、丽水県吕歩坑の龙窑は中间部分の10.5m部分しか确认されていない。近隣には、唐代の龙窑があり、残存部分で39.85m、幅1.7m、窑床の倾斜10~12度である。窑の天井の投薪孔は直接确认できなかったが、このように窑体が长い窑で均质な焼成をするなら投薪孔が设けられなかったとは考えられない。
南京博物院が调査を行った宜兴シ闲衆窑のうち、唐代の窑は、残存部分で28.4m、下半分は2~4度、中央部から窑尾までの部分は5~10度の角度で倾斜させていた。窑壁は长方形のレンガを积み上げている。窑头に幅0.7mの焚き口があり窑室の侧面に出入口のような痕迹がみられないことから、窑头部分から直接出入りして窑诘めを行い、焼成が终わったあとに焼きあがった器を窑出ししたと思われる。中唐から晩唐、すなわち8世纪中叶から9世纪にかけては匣鉢(さや)が出现して使われるようになった。匣鉢を使うことによって制品を高く积み上げることが可能になり、多量の窑诘めが可能になるのみならず、窑室の天井の高さも高くできるようになった。そのため、横に窑への出入り口を设けて直接出入りできるようになった。
湖南省长沙铜官窑で発见された二基の龙窑のうち1号窑は幅3.3mで窑体の下半分が残っており、窑头と窑床の下半分が确认できる。焚き口の幅は0.8mを测る。2号窑については幅3.2mで上半分の窑床と横向で长方形の烟出しの窑尾の部分が确认された。1号窑、2号窑ともに窑床の倾斜は20度である。2号窑では窑壁が高さ1.4mまで残っており、西侧中央部分に出入口が确认されている。
宋代の龙泉窑では长い窑体を持つものは长さ80m前后にまで达した。幅は2m前后、天井までの高さは2m弱で一度に2~3万点の制品を窑诘めすることができた。南宋の终わり顷になるにつれて窑の长さは短くなり龙泉大窑杉树达山2号窑は比较的遗存状态が良く残存部分は46.5m确认されている。実际の长さもやや长い程度であろう。临安の郊坛下官窑のうち1基は、23mしかなく、制品の质を上げることに特化した窑であることを示している。窑头には狭く长い焚き口があり、その下には火力を强めるための通风孔がある。窑床の倾斜は10~20度の间で推移していて下半分、すなわち前の部分は急に立ち上がり、上半分すなわち后ろ部分は缓やかになっている。 窑の壁には廃弃された匣鉢やレンガ、岩壁を用いている。侧面には2~3mおきに片侧に窑门と呼ばれる出入り口を设けるものと交互に両侧に设けるものとがある。窑の天井の両侧には、投薪孔が概ね等间距に设けられ、窑室の最后部の壁の下には幅2m以内の窑であれば狭间(さま)孔[3]が7个设けられている。烟出しはレンガや匣鉢や石を使って横向きの长方形に造っているものや土坑を掘って烟出しにしているものなど様々である。
[编集] 南宋末の障壁を设ける龙窑から阶段窑へ
龙泉県安福石大门山の龙窑は幅2.3m、元代の窑に一部壊されているものの42.9m残存していて横に障焔壁を多数设けており天井まで届くものもある。壁の下部には6~7个の狭间孔があり连房式登窑の先駆をなす窑である。福建省徳化の屈斗宫窑は长さ57.1m残存しており、窑体の幅は1.4m~2.95mである。窑室を障壁によって17室に分けていて最も长いもので3.95m、最も短いもので2.45mである。障壁の下部には狭间孔を5~8个设けており、その大きさは高さ26cm、长さ20~22cm、幅8~19cmくらいである。日本の江戸时代初期に现われた割竹型连房式登窑によく似ている。明代の阶段窑(连房式登窑)の先駆的な形态といえる。
[编集] 脚注
[编集] 関连项目
[编集] 参考文献
朱伯谦「わが国古代の龙窑试论」(楢崎彰一、熊海堂訳)『爱知県陶磁资料馆研究纪要10』所収、1991年

