RCサクセション

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

RCサクセション
基本情报
ジャンル フォーク
ロック
活动期间 1969年
レーベル 东芝音工
ポリドール
キティレーベル
ロンドンレコード
东芝EMI
事务所 ホリプロダクション
りぼん
うむ
メンバー
忌野清志郎ボーカルギター
小林和生ベース
仲井戸丽市(ギター、ボーカル)
旧メンバー
破廉ケンチ(ギター)
新井田耕三(ドラムス)
春日博文(ギター、ドラムス)
小川银次(ギター)
Gee2woキーボード
  

RCサクセション(あーるしーさくせしょん、RC SUCCESSION)は、日本のロックバンド

忌野清志郎をフロントマンとし、「King of Rock」「King of Live」の异名をとるなど日本语ロックの成立や、现在日本で普通に见られるロックコンサート、ライブパフォーマンスのスタイルの确立に大きな影响を及ぼした。実际、RCサクセション (以下、特段の理由がない限り「RC」と略す。) に影响を受けたと公言するミュージシャンは非常に多い。

また、彼らが発信するファッションや言动などは音楽业界にとどまらず若者の间でサブカルチャー的存在とまでなり、1980年代を中心にまさに时代を席卷した。

现在は、1991年より无期限の活动休止状态になっている。


目次

[编集] 概要

[编集] メンバー

[编集] 正式メンバー[1]

  • 忌野清志郎 : ボーカル、ギター / 1968年〜
  • 小林和生(林小和生、リンコ・ワッショー等ともクレジット): ベース、コーラス / 1968年〜
  • 破廉ケンチ:ギター、コーラス / 1968年〜1977年
  • 仲井戸”CHABO”丽市 : ギター、ボーカル、コーラス / 1978年〜
  • 新井田耕造 : ドラム / 1978年〜1990年
  • 小川银次 : ギター / 1979年〜1980年
  • Gee2wo(ゴンタ2号、G2、柴田义也ともクレジット): キーボード、コーラス / 1980年〜1990年(正式メンバーとなる前に数年サポートメンバーを务めている。)

[编集] サポートメンバー

[编集] その他のメンバー

エレキ化以降のレコーディング、ライブでは、ホーンセクションとして梅津和时片山広明ら(时期によって他のメンバーが入ることもあった)が「生活向上委员会」(后に「ブルーデイ・ホーンズ」に改名)のユニット名で参加している。


[编集] 楽曲

[编集] 特徴

基本的には忌野が作词・作曲した楽曲をバンドでアレンジして演奏、レコーディングを行う。自作・自演し、自分たちでアレンジまで行うというスタイルは今でこそめずらしくないが、1970年代初期ではまだ异例のことであった。忌野一人による制作曲の他、时期によっては仲井戸や小林、Gee2woらとそれぞれ共作も行っている。

音楽性、歌词の世界観などは「忌野清志郎」の页を参照。

また、アルバム『BLUE』以降は、1つのアルバムに1曲は仲井戸が作词・作曲を行いボーカルをとった曲が収録されている。

[编集] 代表曲

「仆の好きな先生」「スローバラード」「ヒッピーに捧ぐ」「雨あがりの夜空に」「トランジスタラジオ」「君が仆を知っている」「キモちE」「多摩兰坂」「つ・き・あ・い・た・い」「ドカドカうるさいR&Rバンド」「SUMMER TIME BLUES(カバー)」「ラブ・ミー・テンダー」「I LIKE YOU」など。

[编集] 来歴

1966年 中学の同级生だった忌野、小林、破廉の3人でバンド「ザ・クローバー」を结成する。

1967年 高校进学によりザ・クローバー解散。忌野と小林は、上级生の武田清一 (后に「日暮し」でデビュー。) を迎えて「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー (「クローバーの残党」の意) 」を结成。初めてギャラをもらう仕事をする。

1968年 「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー」が自然消灭の后、破廉がバンドに戻りバンド名を「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー・サクセション(「クローバー〜からの継続」の意)」の省略形から「RCサクセション」と命名する。[2] [3] RCサクセション诞生。

1969年 テレビ番组『ヤング720』(TBS系)のオーディションに合格。続いて8月29日东芝主催の「カレッジ・ポップス・コンサート」オーディションで3位に。この模様を収録したオムニバス盘が初めての公式音源となる。収録曲は「泥だらけの海」。

1970年 「宝くじは买わない」で东芝音工(现东芝EMI)よりシングルデビュー。

1971年 RCが活动拠点の一つとしていた渋谷のライブハウス「青い森」で当时フォークグループ古井戸として活动していた仲井戸丽市と出会う。

1972年 ラジオ番组『ハロー・パーティ』『バイタリス・フォーク・ビレッジ (后に、『ライオン・フォーク・ビレッジ』に改题) 』などへ出演を始める。3rdシングル「ぼくの好きな先生」がヒット。1stアルバム『初期のRCサクセション』をリリース。

1974年 当时のマネージャー奥田义行が事务所(ホリプロダクション)に造反し独立してプロダクション「りぼん」を设立。RCはその騒ぎに巻き込まれ、ホリプロ内で仕事を干される。

1976年 ホリプロダクションから「りぼん」へ移籍。前年に既に制作済みだった3rdアルバム『シングル・マン』がようやくリリースされるも、1年后に廃盘となってしまう。破廉は精神状态が不安定になりギターが弾けない状态となる。

1977年 破廉が正式脱退。

1978年 春日がメンバーとして参加し、フォーク形态からロック / R&B形态へとバージョンアップされる。(当时は、その冲撃の大きさからマスコミでは「パンク・ロック」と评されることが多かった)。さらに、新井田、仲井戸が正式に添加しRCの黄金期を形成するバンドの基础が完成する。忌野は髪を短く切って逆立て派手な衣裳にどぎついメイクをしてステージに出るようになる。

1979年 春日に代わって小川が添加。RCはそのライブパフォーマンスが评判となり、マスコミで度々取り上げられるようになる。ジョニー・ルイス&チャーの前座として初めて日本武道馆のステージに立つ。音楽评论家の吉见佑子らが3rdアルバム『シングル・マン』の再発売を恳愿するため「シングルマン再発実行委员会」を発足、ポリドールとの折冲が缲り返された结果、自主制作という形で300枚限定で异例の再発売が决定する。

1980年 渋谷のライブハウス「屋根里」で4DAYSライブを开催。述べ800人の観客动员数を达成し同ライブハウスの动员记録を打ち立てる。渋谷公会堂でのシーナ&ロケッツバウワウとのジョイントライブも约2000人の観客动员を达成。RC人気に火がつく。『シングル・マン』が正式に再発売される。エレキ化后のデビュー盘となる『RHAPSODY』をリリース。半年以上のロングランヒットとなる。同アルバムリリースと前后し、小川が脱退。替わってそれまでサポートメンバーとして参加していたGee2woが正式メンバーとなる。

1981年 初の日本武道馆単独公演。この年を始めとしてその后10年间连続で武道馆クリスマスライブを行う。この年はその他にも年间100本近いライブを行う。[4]

1982年 忌野が坂本龙一(当时イエロー・マジック・オーケストラ)と组んで発表したシングル「い・け・な・いルージュマジック」が资生堂82春のキャンペーンソングとしてヒット。PVでは、どぎつい化粧をして男同士でキスをするなど过激なパフォーマンスを展开、时代を席巻する。 RCとしては同年、サム・ムーアチャック・ベリーらとのジョイントライブを开催(アルバム『THE DAY OF R&B』収録)。ロンドン・レコードに移籍。自身のレーベル「BARCA」を设立。

1985年 事务所「りぼん」から独立。自分たちの事务所「うむ」を设立。西武剧场(现PARCO剧场)で独立记念コンサート「スーパーエイプリルフール」を开催(泉谷しげる、坂本龙一、矢野顕子、三浦友和らがゲスト参加)。

1988年 东芝EMIより発売予定だったシングル「ラブ・ミー・テンダー」とアルバム『COVERS(カバーズ)』が、収録曲の歌词の问题で発売中止となる。同シングルとアルバムは结局古巣キティレコード(现ユニバーサルミュージック)から発売され、RCとして初のチャート1位を获得する。

1989年 HARD TIMES LIVE ツアーはリリースされていない新曲中心という异例の构成で行われる。また、レコード会社に対する不満からステージ上で「録音自由化」を宣言。

1990年 Gee2wo、新井田が相次いで脱退。现段阶でのラストオリジナルアルバム『Baby a Go Go』をリリース。続くツアーは札幌、仙台、福冈、名古屋、大阪および日本武道馆のみ行い、以降(翌年)のツアーはすべてキャンセルされる。

1991年1月 无期限活动休止に入る。事务所「うむ」は解散。

[编集] 详细・エピソード

[编集] 结成 〜 デビュー「宝くじは买わない」 (バンド黎明期)

  • 使用楽器、バンド编成はアコースティック(フォーク)ながら、ヘヴィゲージの弦を张ったギターを叩くようにかき鸣らして発せられる楽曲は、コード进行やハーモニー、スリリングなギターソロなど既にR&B、ロックに近いものであった。 (后に発表された、初期の曲を集めた编集盘アルバムのタイトルが『ハードフォーク・サクセション』となっていることからも当时から音楽性が日本のフォークソングとはまったく异质であったことが伺える。)
  • 活动拠点としていた「青い森」「渋谷ジァン・ジァン」などのライヴハウスで、古井戸、泉谷しげるらと亲交を深める。泉谷は当时のRCのことを「RCは凄まじかったね。アコースティックギターのリズム队でありながらロックだったわけよ。ウッドベースなんかスリリングでさ、すんげえソウルフルなんだよ」と评している。[5]
  • 既にこの顷のセットリストには、「ファンからの赠り物」「ダーリンミシン」「うわの空」「マリコ」「君が仆を知っている」等、后年レコーディングされた曲のタイトルが见られる。
  • デビューシングル「宝くじは买わない」は、当时のマネージャーであった金田が连れてきた伊势田トリオというグループをバックに演奏したが、最终的にレコードになったときにはスタジオミュージシャンのテイクが使われた。[6]


[编集] 『初期のRCサクセション』 〜 『楽しい夕に』 (アコースティック期)

  • 1stアルバム『初期のRCサクセション』は、レコードの音源に自分たちの意図しない胜手なアレンジがほどこされていたために不満を感じる。そのため2ndからは自分たちの演奏を主体としたレコード作りを始め、后年まで外部プロデューサーの介入を避けるようになる。
  • 1970年代初期の未発表ライブ音源が『ロック画报2002年第10号』の付録CDに収録されている。曲は、「つまらない仕事」「ぼくとあの娘」「忙しすぎたから」「内気な性格」「もっと何とかならないの?」「ぼくの自転车のうしろに乗りなよ」の6曲。选曲は忌野自身が行い、マスタリングには忌野と破廉が立ち会った。[7]
  • 忌野の高校の同级生である俳优の三浦友和は、『初期のRCサクセション』に収録の「言论の自由」にボンゴで参加している。彼はステージにもよく加わることがあり、また一时期破廉と同居するなどかなりRCと亲交が深かった。
  • 忌野が作词・作曲した「指轮をはめたい」を元にして、井上阳水と「帰れない二人」を共作。もう1曲「待ちぼうけ」を共作し、この2曲が収録された井上のアルバム『氷の世界』 (1973年) がミリオンセラーとなる。
  • 1974年、ホリプロダクションのプロデューサー奥田义行が、当时大ブレーク中だった井上阳水を连れてホリプロを离れ独立事务所「りぼん」を设立。この造反行为に激怒したホリプロは、奥田の子饲いだったRCの「りぼん」移籍を阻止。RCはスタッフも仕事も与えられず饲い杀し状态となる。
  • この顷、3枚目のアルバム『シングル・マン』を録音するも、事务所の移籍トラブルによりお蔵入りになってしまう。


[编集] 『シングルマン』 〜 「わかってもらえるさ」(暗黒期)

  • 1975年、仕事がほとんどなくなり、活动休止状态になる。
  • 1976年、ホリプロとの契约が切れ、正式に「りぼん」に移籍。
  • レコード会社を东芝音工からポリドールに移し、3年1ヵ月ぶりのシングル「スローバラード」、3年4ヵ月ぶりの3rdアルバム『シングル・マン』をリリース、さらにキティレーベル(后のキティレコード)に移籍してシングル「わかってもらえるさ」を発売するも、すぐにそれらのレコードは廃盘となる。

 またアルバムには「このレコードは世界的ミュージシャンが豊富に使用されておりますので安心してご利用ください」と书いてある。

  • アルバム『シングル・マン』のジャケットに使われているイラストは幼児児童絵画统覚検査図版(金子出版)のもの。元本は忌野自身が探してきた。なお、当アルバムのジャケットに使われているRCサクセションのロゴも忌野がデザインしている。
  • 忌野の爱车日産・サニーが廃车となる。この车をモデルとして「雨あがりの夜空に」の歌词が书かれた。[9]
  • 当时唯一の活动と言ってもよかったのが他のミュージシャンの前座であったが、メインアクト目当てで来ている観客からは「早く消えろ」等の骂声を浴びせられることが少なくなかった。矢沢永吉の前座で出演した际にはRCが登场するやいなや「帰れ」コールが浴びせられたため、忌野が客をからかって「矢沢B吉でーす。永ちゃん、いま楽屋でクソしてまーす」と発言。客席は大混乱となり、演奏中絶えず「死ね」など怒号のような野次を食らう。[10]

[编集] 「ステップ」 〜 『BLUE』(复活・ブレイク期)

  • 1979年、3年8ヵ月ぶりのシングル「ステップ!」を発売し、再デビューする。しかしこのシングルも、まだメンバーの演奏力を信用しきれていなかった制作担当者によりスタジオミュージシャンのテイクが采用されている。
  • 「雨あがりの夜空に」「トランジスタ・ラジオ」等、后に日本のロック・クラシックと言われるヒットシングルを连発。パンク・ロック的なスピード感とR&Bに影响を受けた楽曲、グラムロックミック・ジャガーを彷佛させるドギツいメイクでのステージが话题になる。忌野がオーティス・レディングの言叶を日本语にしてステージ上で観客へ呼びかけた「爱しあってるかい?」というフレーズは一世を风靡。
  • 「清志郎ルック」の髪型やメイク、ファッションを身にまとった若者が出现するに至って、音楽志のみならず『アサヒグラフ』や『anan』、『宝岛』、各新闻などでも取り上げられ、サブカルチャー的存在として社会现象とまでなる。1980年7月20日付の朝日新闻の社説では、「RCのコンサートへ行けば、今日のわが国のあらゆるタイプの若者像を瞬时にして知ることができる」とまで评される。
  • アルバム『RHAPSODY』リリース后、バンド名を変えようという话もあったが、「いちおうこれだけ続いたバンド名なんだから」という理由で却下される。


[编集] 『BEAT POPS』 〜 『King of Live』(絶顶期)

  • 関川诚编集长のもと、パンク、ニュー・ウェーブ系の音楽雑志となっていた雑志『宝岛』で、日本のロック・バンドのシンボル的存在として何度も取り上げられる。特に忌野は「ロック少年・ロック少女たちのカリスマ的存在」となり、漫画等にも忌野をモデルとしたと思われるキャラクターが描かれるようになる。
  • 1982年、生放送番组「夜のヒットスタジオ」に出演した际、忌野が曲の最中画面狭しと暴れまわったり、司会者とのトーク时より噛み続けていたガムをテレビカメラに向かって吐きかけるなどの悪ふざけをし、さらにそのことで视聴者へ谢罪する司会者の后ろで舌を出したり顔をしかめるなどしたことから、テレビ局に「ふざけるな」など抗议の电话が杀到。その数は500本近くに上ったと言われている。
  • アルバム『OK』は、RC初の海外(ハワイ)録音。飞行机嫌い、海外嫌いだった仲井戸が初めて海外に行った。感想は「けっこういいとこだったよ。外には出なかったけど」。
  • アルバム『OK』制作时顷より、忌野の体调が最悪の状态になる。ジャンクフード、ドラッグ渍けの生活といった长年の不摂生、ライブとレコーディングに追われる过密スケジュール、风吕なし极贫アパートでの不卫生な生活という低待遇など无理が重なったためと思われ、検査の结果、医者に「君の肝臓は一生治らない」と宣告される。


[编集] 『FEEL SO BAD』 〜 『Tears of a Clown』(激动期・その1)

  • 1982年、レコード会社をロンドン・レコードに移籍。
  • 1984年、ロンドン・レコードの日本法人が成绩不振のために解散し、ロンドン・レコードはポリドールレコードに吸収される。RCは古巣の东芝EMIに移籍。
  • 事务所が胜手にRCの原盘をNEWSレコードへ提供しベスト盘『EPLP2』とオムニバス盘『MIX&MIXER』を発売。だが、それらの発売に関しミュージシャン当人たちに事前に许可が取られていなかったこと、RCが嫌悪していたNEWSレコードから発売されたことに対してメンバーは激怒。当时NEWSレコードの干部だった山本コータロー松山千春をステージ上で猛烈に批判し、ファンに「(NEWSレコードから出た)“アーティスト非公认盘”を买わないように」と発言する。また、以前から熏ぶっていた事务所「りぼん」の営利第一主义的な経営姿势に対する不信感、RCへの低待遇の不満に加えて、これらずさんな着作権管理に怒りが爆発。アルバム『FEEL SO BAD』の曲中で所属事务所とその社长を公然と批判し一时诉讼沙汰となる。
  • 1985年、トラブルの末、「りぼん」から独立。自分たちの事务所「うむ」を设立。
  • 忌野の肝臓が奇迹的に回复、心身ともに充実するようになる。
  • 仲井戸丽市が初ソロアルバム『THE仲井戸丽市BOOK』をリリース。


[编集] 各ソロ活动等(停滞期)

  • 1987年、イギリスのパンク・バンド、ブロックヘッズのメンバーをバックにした忌野の初ソロアルバム『RAZOR SHARP』がリリースされる。忌野は同メンバーを従え全国ツアーも行う。それに伴いRCの活动は一时休止状态となる。(当初、RCとしてイギリスでレコーディングする话が持ち上がっていたが、忌野以外のメンバーが海外録音を拒否したためとも言われる。[11]


[编集] 『MARVY』 〜 『コブラの悩み』(激动期・その2)

  • 1988年、反戦・反核をテーマにしたカバーアルバム『COVERS(カバーズ)』とシングル「ラブ・ミー・テンダー」を制作するも、発売元の 东芝EMIの亲会社・东芝が原子力関连企业でもあったため、歌词が问题视され急遽発売中止になる。东芝EMIは全国纸 (毎日新闻朝日新闻読売新闻) で「素晴らしすぎて発売できません」との広告を打つ(これは忌野が东芝から「企业の伦理とかいうのがあってどうも…、素晴らしすぎて出せない」と発売の中止を告げられたことを受け、「素晴らしすぎて出せないっていうんだったら、それを新闻に出してくれ」と言ったことによる。[12])。急遽レコード会社を古巣キティレコードに変えて発売されたこのアルバムは、话题性もあり皮肉にもRC初のチャート1位を获得する。この事件に関しては、『COVERS』の页に详细を记述。[13]
  • アルバム『COVERS』の発売中止から、2ヵ月后の8月15日にライブを行い、この模様を収録したライブアルバム『コブラの悩み』をその年の12月にリリース。演奏曲目はほとんどが怒りをストレートに表现したもので、「発売中止騒动の时のマスコミの対応」や「东芝」を痛烈に批判した(ただし、このアルバム自体は东芝EMIからリリースされている)。
  • ライブアルバム『コブラの悩み』には、同アルバム中唯一のスタジオ録音である「君は Love Me Tender を聴いたか?」がアルバムラストに曲の冒头部分のみ収録されている。この曲は、発禁问题を引き起こした「Love Me Tender」に対するセルフ・アンサーソングであるが、核心部分を语ろうとする「あの歌は、…」という歌词のところで音声が途切れ终わっている。なお、1988年のクリスマス武道馆ライブではこの曲がフルバージョンで披露された。内容は、「反原発ロック」などというレッテルを贴られた曲に対するシンパシーや、たかが一曲の歌ごときにレコード会社やマスコミなどの大企业が政治力まで使い圧力をかけてくることやことほどさように大騒ぎすることの愚かさ、日本の社会の未熟さを皮肉った内容となっている。结局フルバージョンはCD化されていない。


[编集] 『Baby A Go Go』(终焉期)

  • 1990年、メンバー间での话し合いの末、Gee2woが脱退(趣味に梦中になり过ぎ练习をすっぽかすことが度々あったこと、小林らとの音楽的な志向性の违いがあったことなどが主要因と言われている)[14]。以降、キーボードにはVOW WOWの厚见玲衣がサポートで参加することになる。
  • 『Baby a Go Go』の制作中、ミキサー(ヘンリー・ハーシュデイヴィッド・ドマーニッチ)と忌野が、曲によってドラマーを春日博文や外部のドラマーに変えたいという方针を打ち出したことに新井田が反発、RCを脱退する[15]。结果、RCは忌野、仲井戸、小林の3人编成となる。
  • 忌野、仲井戸、小林の3人で现时点でのラストオリジナルアルバム『Baby a Go Go』をリリース。ヘンリー・ハーシュら外国人プロデューサーを迎えアナログ制作にこだわって作られたこのアルバムは高い评価を得る。
  • 1990年12月25日の日本武道馆ライブを最后にRCとしての活动を休止。事务所「うむ」は解散となる。


[编集] その后 〜 现在

  • 活动休止以来RC名义の活动はないものの、忌野と仲井戸はライブでたびたびRC时代の楽曲を共演している。また、忌野のソロアルバムに仲井戸がゲスト参加したり、楽曲を共作したりしている。
  • 2007年12月8日、日本武道馆での『Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ』に、忌野、仲井戸、新井田、厚见によるベースレスという変则的な形态で出演(名义は「忌野清志郎+仲井戸丽市」)。RCゆかりのメンバーのみで再集结し、圧倒的な演奏力で健在ぶりを见せ付けた。
  • 2008年2月のライブ『忌野清志郎 完全复活祭 武道馆』にて忌野、仲井戸、新井田、厚见、梅津、片山らの共演が実现。メンバー绍介で忌野が新井田耕造の名前を告げると日本武道馆がひときわ大きな歓声に包まれた。[16]


[编集] その他のエピソード

  • アルバム『EPLP』は、EP(シングル)盘で発売した曲を集めた编集盘。EPの曲を集めて作ったLP(アルバム)だから『EPLP』。これに関连し忌野は、音楽メディアがレコードからCDに切り替わった当时、「そのうちに『ABCD』っていうCDを谁か出すんじゃないか」と言っていたが、后年自身でミニアルバム『abcd』を出している。
  • アルバム『COVERS』以前からも忌野が书く歌词は再三物议をかもしている。
    • シングル「ボスしけてるぜ」は、ボス (経営者) に给料を上げてくれないとやる気が起こらないと平社员の青年が恳愿する内容。この歌词に眉をひそめた中小企业の経営者たちからの苦情により银座地区など歓楽街で流される有线放送で放送禁止になってしまう。
    • アルバム『BLUE』に収録の「あの娘のレター」は曲中「ポリ公」という歌词がレコ伦に引っかかったためその部分の音声にノイズが被せてある。歌词カードでも伏字にしてあるが、「ライブでは胜手に歌わせていただきます」という旨の注釈がついている。
    • お墓」は、フォーク时代からの重要なレパートリー曲でありアルバム『シングル・マン』に収録予定だったが、タイトルが忌み嫌われ収録を见送られた。结局正式にレコード化されたのは、その7年后にリリースされたアルバム『OK』においてである。なお、歌词の内容は、自分の元を去った恋人への失望からその恋人との思い出のある街には二度と行くことはない、そこは自分の心が死んだところであり心のお墓が立っている、というものである。
    • ライブアルバム『the TEARS of a CLOWN』に収録された「君はそのうち死ぬだろう」は、ノイローゼ気味となった友人を逆説的に励ますための曲だったが、内容的にまずいということで歌词カードには载せられなかった。
  • 曲に歌われた多摩兰坂は、东京都国立市に実在する坂。RCファン、忌野ファンの圣地となっている。近くの大学生が通学时に上るときに「坂がきつくてたまらん!」と言ったことが地名の由来。以前は坂の途中の石垣にRCファンによって「清志郎」などの落书きがあったが、现在は取り壊されマンションが建っている。
  • 『PLEASE』収録の「あきれてものも言えない」は、RCの暗黒期に事务所のスタッフにハッパをかけようとして泉谷しげるが言った「清志郎はもうだめだよ、立ち直れねえよ」という言叶を人づてに歪曲して闻いた忌野が激怒して作った曲。歌词の「どっかの山师が 俺が死んでるって言ったってさ」の部分を、ライブでは足の不自由な泉谷のことをあからさまに侮蔑する歌词に替えて歌っていた。[17]
  • 1990年、RC20周年记念で出版された『游びじゃないんだっ!(マガジンハウス)』の表纸および帯には、「RCサクセションの40年・上巻」「下巻は2010年の発売です」というジョークが书かれていた。それからはや18年が过ぎ2010年は当前だが、下巻が発売されるのかは不明。
  • 忌野のソロアルバム『梦助』に収録された「激しい雨」は、忌野と仲井戸が共作した楽曲。歌词の中で「RCサクセションが 聴こえる RCサクセションが 流れてる」と歌っている。
  • BOØWY氷室京介は、1981年のRC野音ライブを観て、バンド结成を思い立ったとインタビューで语っている。
  • その他の详细エピソードについては、忌野清志郎の页を参照。

[编集] ディスコグラフィー

[编集] シングル

  1. 宝くじは买わない / どろだらけの海 (1970.03.05) - 両面共编集盘のみに収録。
  2. 涙でいっぱい / イエスタディをうたって (1970.12.05) - 両面共编集盘のみに収録。
  3. ぼくの好きな先生 / 国立市中区3-1(返事をおくれよ) (1972.02.05)
  4. キミかわいいね / あの歌が想い出せない (1972.07.05) - 両面共编集盘のみに収録。
  5. 三番目に大事なもの / けむり (1972.12.20) - 両面共编集盘のみに収録。
  6. スローバラード / やさしさ (1976.01.21)
  7. わかってもらえるさ / よごれた顔でこんにちは (1976.10.11)
  8. ステップ! / 上を向いて歩こう (1979.07.21)
  9. 雨あがりの夜空に / 君が仆を知っている (1980.01.21)
  10. ボスしけてるぜ / キモチE (1980.05.21)
  11. トランジスタ・ラジオ / たとえばこんなラブソング (1980.10.28)
  12. サマーツアー / ノイローゼ・ダンシング(CHABOは不眠症) (1982.06.23) - カップリング曲はアルバム未収録。
  13. つ・き・あ・い・た・い / 窓の外は雪 (1982.12.15) - カップリング曲はアルバム未収録。
  14. Oh! Baby / ダンスパーティー (1983.06.01) - カップリング曲はライブアルバムのみに収録。
  15. ベイビー!逃げるんだ。 / おはようダーリン (1983.11.07) - 両曲ともアルバム未収録。
  16. 不思议 / 甘いシル (1984.07.21) - カップリング曲はアルバム未収録。
  17. すべてはALRIGHT(YA BABY) / 春うらら (1985.04.21) - 「すべては〜」は、CD化された后の『HEART ACE』に収録。カップリング曲はアルバム未収録。
  18. スカイ・パイロット / LONELY NIGHT(NEVER NEVER) (1985.11.21)
  19. NAUGHTY BOY / DIGITAL REVERB CHILD (1988.03.25)
  20. ラブ・ミー・テンダー / サマータイム・ブルース (1988.08.15)
  21. I LIKE YOU / 忠実な犬(1990.09.05)
  22. スローバラード (RE-MIXED VERSION)  (1991.02.06)

[编集] アルバム

  1. 初期のRCサクセション(1972年2月)
  2. 楽しい夕に(1972年12月)
  3. シングル・マン(1976年4月、再発売1980年8月)
  4. ラプソディー(1980年6月) - 久保讲堂でのライブにスタジオ作业を加え完成されたエレキ化后の初アルバム。后にフルバージョンが収録された「ラプソディー・ネイキッド」も発売。
  5. PLEASE(1980年12月)
  6. BLUE(1981年11月)
  7. Yeahhhhhh...at武道馆(1982年4月) - カセットテープのみの発売。未CD化。
  8. BEAT POPS(1982年10月)
  9. THE DAY OF R&B(1982年12月)- サム・ムーア、チャック・ベリーとの共演盘
  10. OK(1983年7月)
  11. THE KING OF LIVE(1983年) ライブ盘。
  12. FEEL SO BAD(1984年11月)
  13. HEART ACE(1985年11月)
  14. NAUGHTY BOY (1986年4月) - 新曲2曲とリミックス曲2曲を収録したミニアルバム。未CD化。
  15. the TEARS OF a CLOWN(1986年10月) ライブ盘。
  16. MARVY(1988年2月) オリジナルアルバムとしては初の2枚组アルバム。
  17. COVERS(1988年8月)
  18. コブラの悩み(1988年12月) ライブ盘。
  19. Baby a Go Go(1990年9月)
  20. RHAPSODY NAKED(2005年10月) - 1980年4月、久保讲堂でのライブをほぼそのまま収録した完全版。ライブ盘。

[编集] 主な编集盘

  • EPLP(1981年6月)
  • ハードフォーク・サクセション(1982年3月) - 「どろだらけの海」「イエスタディをうたって」「キミかわいいね」「あの歌が想い出せない」「三番目に大事なもの」「けむり」収録  
  • EPLP-2(1984年7月) 廃盘
  • BEST OF RC SUCCESSION 1970-1980(1990年11月)
  • BEST OF RC SUCCESSION 1981-1990(1990年11月)
  • ソウルメイツ(1995年9月)
  • SUPER BEST(1998年12月)
  • ゴールデン☆ベスト(ユニバーサル编)(2002年6月)
  • Wonderful Days 1970-80(2005年6月) - 「宝くじは买わない」「涙でいっぱい」「キミかわいいね」収録。 
  • Greatful Days 1981-90(2005年6月)

[编集] ビデオ・DVD

  1. RC SUCCESSION AT BUDOHKAN (1982年3月) - 1981年に行われた初の武道馆公演の映像。
  2. THE KING OF LIVE (1984年4月) - 1983年のクリスマス武道馆公演。「ベイビー! 逃げるんだ。」のビデオクリップも同时収録。
  3. SPADE ACE (1985年12月) - 『FEEL SO BAD』と『HEART ACE』からのビデオクリップ集。企画、演出は川崎彻
  4. the TEARS OF a CLOWN (1986年11月) - 1986年、恒例の夏の日比谷野音ライブの模様を収録。4DAYSの映像を巧みに组み合わせまとめてある。
  5. コブラの悩み (1989年1月) - 1988年8月の日比谷野音ライブの映像。『COVERS』騒动の直后のライブであり、会场全体が异様な热気に包まれている模様が収められている。
  6. ミラクル 20th Anniversary (1990年11月) - 1990年8月の日比谷野音ライブの映像。RC20周年记念にふさわしい选曲となっている。なお、新井田、Gee2wo脱退后であるためドラムとキーボードはそれぞれ春日と厚见が务めている。
  7. RHAPSODY 〜the video〜 (1994年6月) - レコード会社の仓库に眠っていたアルバム『RHAPSODY』の映像版。
  8. THE ROCK'N' ROLL SHOW 80/83 (1998年7月) - 1984年発売の『THE KING OF LIVE』と1994年発売の『RHAPSODY 〜the video〜』をリマスター、2in1にしてDVD化したもの。
  9. ライブ帝国 RCサクセション (2003年10月) - 1980年代后半、テレビ神奈川で放送されたTVライブの模様を収録。
  10. ライブ帝国 RCサクセション 80's (2003年11月) - テレビ神奈川で放送されていた『ファイティング80's』で放映された1980年〜1981年のライブ映像。
  11. ライブ帝国 RCサクセション 70's (2003年12月) - テレビ神奈川で放送されていた『ヤングインパルス』の1972年4月〜9月のパフォーマンスを収録。

[编集] 脚注

  1. ^ 忌野清志郎の公式HP「地味変」のUNIT绍介の项目には、①忌野、林小、破廉(1968〜1977) ②忌野、林小、仲井戸、新井田、小川(1977〜1979) ③忌野、小林、仲井戸、新井田、Gee2wo(1980〜1989) ④忌野、仲井戸、小林、春日、厚见(1989~1990) 以上4つの形态が「RCサクセション」として绍介されている。
  2. ^ 『GOTTA! 忌野清志郎』中、忌野谈
  3. ^ エレキ化后のブレイク期に「ある日(バンドを)作成しよう」をもじった言叶游びという説が広く流布したが、现在ではこれはテレビ番组で忌野が冗谈で発言したものがそのままメディアで取り上げられたことによる误解であるとされている。その他、商业的成功者を揶揄する「ラジオコントロールされた成功者」の意味(ただし本来「succesion」に「成功者」の意味はない)など、その奇妙なバンド名ゆえに名前の由来に関しては诸説多数が流れている。
  4. ^ 别册宝岛 音楽志が书かないJポップ批评 忌野清志郎のブルースを捜して
  5. ^ 泉谷しげる自伝『わが奔走』(ロッキングオン)
  6. ^ 『GOTTA! 忌野清志郎』中、忌野谈
  7. ^ ロック画报・2002年10号「特集 RCサクセションに捧ぐ」
  8. ^ 『GOTTA! 忌野清志郎』中、忌野谈
  9. ^ 『GOTTA! 忌野清志郎』
  10. ^ 『GOTTA! 忌野清志郎』
  11. ^ 生卵(河出书房新社)
  12. ^ 月刊カドカワ・1992年3月号「総力特集 清志郎の遗言」
  13. ^ 别册宝岛 音楽志が书かないJポップ批评 忌野清志郎のブルースを捜して
  14. ^ 日々の泡立ち 真説RCサクセション
  15. ^ 日々の泡立ち 真説RCサクセション
  16. ^ 「メンバー绍介の时のお客さんからの反応、ドラマー冥利につきました。自分自身としてはちょっと意外な感じでしたが、嬉しい惊きでした。 応援してくれた皆さん、ありがとうございました。」新井田耕造オフィシャルHPより。
  17. ^ 『GOTTA! 忌野清志郎』中、忌野谈


[编集] RCサクセションに関する主な文献

  • 爱しあってるかい(JICC出版局 1981年)
  • 十年ゴム消し(忌野清志郎による私小説风エッセイ、六兴出版 1987年・河出文库 2000年)
  • GOTTA!忌野清志郎(忌野清志郎伝、角川文库、1988年)
  • 游びじゃないんだっ!(RCサクセション20周年记念、マガジンハウス、1990年)
  • 日々の泡立ち 真説RCサクセション(インタビュー集、ロッキング・オン、1991年)
  • 月刊カドカワ・1992年3月号「総力特集 清志郎の遗言」(角川书店、1992年)
  • 生卵(忌野清志郎デビュー25周年记念 河出书房新社、1995年)
  • 濒死の双六问屋(忌野によるエッセイ集、光进社、2000年)
  • ロック画报・2002年10号「特集 RCサクセションに捧ぐ」(ブルース・インターアクションズ、2002年)
  • 别册宝岛 音楽志が书かないJポップ批评 忌野清志郎のブルースを捜して(宝岛社、2006年)

ほか


[编集] RCサクセション関系外部リンク