少女ヌード写真集(しょうじょヌードしゃしんしゅう)は、文字通り少女(18歳未満)、特に第一次性徴~第二次性徴(体の成长(変化)期)间の裸体を被写体にした写真作品。日本では1960年代から出版されていたが、1999年の児童买春、児童ポルノに系る行为等の処罚及び児童の保护等に関する法律の施行によってごく一部を除き出版・流通とも停止した。
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1970年代の末が日本の少女ヌード写真のブームの幕开けであって、それ以前に存在したものは少なく、かつ后年のようなポルノグラフィー的な捉え方をされていない。
少女ヌード写真集は日本においては1969年の剣持加津夫撮影『ニンフェット 12歳の神话』(ノーベル书房)を嚆矢とする。写真は白黒主体で、モデルは12歳の梅原多絵、梅原龙三郎の孙娘である。その后、同书は1970年に『12歳の神话』(ノーベル书房)、1977年・1978年に新装版『エウロペ 12歳の神话』(ブロンズ社)と名前を変えて再版されている。文は高峰秀子。自然の中のおおらかなヌードでナチュリズム的感覚が前面に出た、エロス的要素の少ないものであった。もともと剣持は妊娠中絶问题、性教育、青少年麻薬问题の専门家であり、前年の1968年にノーベル书房から『成熟への导きᅠ: スエーデンの性教育』を出版している事から分るように、この写真集は当初、性的対象としての少女というよりも、あくまで性解放というコンテクストで出版されたのである。翌1970年にはノーベル书房から『星 阳子フォト・ロマネスク 初恋十六歳』小川胜久撮影、が出ている。
1971年には、梅原多絵に続き、11歳の大上亜津佐をモデルとして『光の中の少女』が大山谦一郎撮影で壱番馆书房から出版された。やはり自然主义的なヌードであるが、毎日新闻に全面広告写真(1971年10月29日)が出た事で话题に。大上は长友健二の撮影で「平凡パンチ」1971年11月1日号のグラビアにも登场。なお、毎日新闻の意见広告は大上のヌードとともに「彼女はまだ11才。どう育つでしょう、セックスセックスセックスの世の中で」のコメントをつけている。「过剰」と思われた大人社会の性の泛滥に対し、少女ヌードはそれに抵抗する非「性」の象徴であるかのように振舞われていた。大上の登场は社会的な反响を呼び、ほかの雑志などにも取り上げられた。永井豪の漫画『ハレンチ学园』騒动と并び、「子供の性」をめぐる当时の状况的な出来事となった。
1973年、沢渡朔撮影による『少女アリス』(河出书房新社)が出版。梅原や大上のようなナチュラルな无垢さを押し出したものとは异质な、エポックメーキングな作品であった。8歳のモデル、オーディションで帰り际にキスを投げかけて合格したというブロンドの少女サマンサを使って、ロンドン郊外で撮影されたこの写真集は、ルイス・キャロル『不思议の国のアリス』をモチーフにした幻想的な雰囲気のなかで、フェティッシュな対象としての少女を耽美的に表现し、不朽の名作となる。诗を泷口修造と谷川俊太郎が书いている。1979年に沢渡は6年后のサマンサを撮った続编、『ALICE FROM THE SEA 海からきた少女』(河出书房新社)を出版している。これらの沢渡作品は、芸术的として男性のみならず女性の购买者に高く评価された。
1977年には、それまでに「ビーナス'74展」(ポーランド国际芸术写真协会1974年)や「世界写真展」(ドイツ・シュテルン社主宰1972年)で写真赏を受赏して国际的に活跃していた女流写真家清冈纯子が、最初の少女ヌード写真集『圣少女 Nymph in the Bloom of Life』(フジアート出版、藤本义一・文)を出版した。1979年にはそれに続き『野菊のような少女 圣少女パート2」』(池田満寿夫・文)を出版。清冈は、ここから1980年代にかけて毎年のように写真集を出してゆき、野外撮影を得意とする自然主义的な作风で最も多作な少女ヌード写真家となる。
1970年代末は日本の少女ヌードが量産を迎える出発点となり、「ロリータブーム」の开始时期。『プチフェ: ヨーロッパの小さな妖精たち』(1979年)から、『爱の妖精ソフィ』(1980年)、さらに森茉莉が文章を书いた『妖精ソフィ』(1981年)は、「人形のようにかわいい」シュールレアルな魅力によって一分野を开拓した。
1979年には山木隆夫撮影『LITTLE PRETENDERS 小さなおすまし屋さんたち』(ミリオン出版)が出版され、多くの一般书店に并んだことも重要な事件であった。本书は実売数万部と言われ、この种の写真集の需要が立证されることになった。これ以降1980年代のブームにかけて写真集の购入者层は男性中心に広がりを见せ、しばしば芸术的な表现よりも性器の露出など性爱的な刺激の强いものを求める倾向も生じた。1982年には山木『LITTLE PRETENDERS Forever』が出版されている。
1980年代は、少女ヌード作品が市场の大きな需要となっていることが明确に意识され、それに応えようと爆発的ともいえる供给がなされた时期となった。翻って1970年代から欧州においては、イリナ・イオネスコやデイヴィッド・ハミルトンなど限られた写真家の少女ヌード作品が存在したものの、数は限られており公に流通するのはその芸术性が社会的に认められたものだけだった。それとは対照的に1980年代の日本では大量の少女ヌード作品が生産され、1年间の出版数だけで、欧米の10年、20年を优に超えるほど类を见ない量的拡大を特徴とした。それが可能だったのは、猥亵図画をめぐる法律が実体主义(阴毛露出を基准とする)に终始して阴毛のない少女ヌードに适用されなかった事、欧州でイオネスコが直面したような児童ヌード表现と人権をめぐる深刻な议论や裁判を回避できた事、日本は欧米的なキリスト教的禁忌が薄くいわゆる「ロリコン」男性の需要にさほど抑圧的でなかった事などが挙げられる。会田我路、近藤昌良などの多作でメジャーな写真家もこの分野に参入した。
これらの大量増産は1980年代后半から问题视される结果となり、少女ヌードの存在は児童性爱的な男性の需要と密接に结び付けられ、わいせつ表现の面から、そして児童虐待や凶悪犯罪などの逸脱につながる可能性の面から、社会的な批判や介入をよび、いくつかの児童福祉法违反による検挙や猥亵図画としての规制圧力を余仪なくされるに至る。
一方でモデルとなった児童へのストーカー行为などから、出版社や写真家らはこうした事件の回避策として、海外により多くのモデルを求めるようになっていく。特に1990年代には力武靖をはじめとする写真家が多くの写真集において外国人モデルでありながら日本人のような名前を付けて発表していたことにはこうした背景が存在した。すなわち、モデルの実名は勿论のこと、その出身地や具体的なプロフィールを原则として一切公开せず、あくまでも日本人としてリリースし、モデル児童の人権を保护しようというものであったが、一般世论的には海外に安く性的な榨取を求めていると解釈され、より强い非难を浴びる结果へと繋がっていった。
大渕静树(大舞地静树)は刺激の强いものが多く、その足迹は1980年『白夜の少女ティナ』(徳间书店)から、1983年『妖精伝説 ヨーロッパの天使たち』、1984年『ロリコンTHEワールド 欧州撮り歩き』までの一连の作品に见ることができる。
力武靖が约10年间撮影し続けたモデル西村理香が人気を得て写真集がベストセラーとなる。1994年に高桥生建が竹书房は「新鲜组」増刊で「美少女纪行」を刊行し、地域毎に総集编MAXが出るなど好评を博した。これは大人びたモデルも多いが、现在では题名からネットオークションで规制にかかるという。1999年に児童买春、児童ポルノに系る行为等の処罚及び児童の保护等に関する法律が施行されたことにより、児童(18歳未満)の裸像を书籍、インターネットなどを通じて颁布する行为が禁止された。これにより、少女ヌード写真集の新规の出版は不可能となった。
2005年春、国立国会図书馆蔵书の「清冈纯子写真集 Best Selection!」が児童ポルノ认定を受け、閲覧不可となる。それ以后も児童ポルノの疑いがある资料が选定されてゆき、2006年4月1日をもって、同図书馆所蔵の少女ヌード写真を含んだ资料の数百点が児童ポルノとして閲覧不可となった。
プチトマト・シリーズ (ダイナミックセラ-ズ) 1982-87年
フレッシュ・プチトマト・シリーズ (ダイナミックセラ-ズ)1988-1990年
力武靖名义のものについては力武靖の写真集の一覧を参照。